神祇官興復運動
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神社が公的支出から切り離されつつある中で、神職らは全国神職会を組織し、「国家の宗祀ならば国が責任を持って予算を出すべきだ」と主張して政府に対して神祇官の復興を求める神祇官興復運動という運動を起こした。この結果、1894年(明治27年)に「府県社以下神社ノ神職ニ関スル件」が発令され、府県社以下の神職は地方長官から任命を受ける待遇官吏の身分となった。1896年(明治29年)には衆議院で「神祇官興復ニ関スル決議案」が通ったものの、結局神祇官の復興自体は実現しなかった。しかし、1900年(明治33年)に、内務省の社寺局が神社局と宗教局とに分離し、一応は神道と他宗教が行政上明確な区分をされるようになった。そして1906年(明治39年)には官国幣社保存金制度が廃止されて官国幣社に対しては国庫より恒常的な支出がなされるようになり、府県社以下の神社に対しては、地方府が神饌幣帛料の供進を行なっても構わないとされた。 しかしながら、官国幣社への支出金の額は従来の保存金制度の枠内に収めることとされ、当時の物価で年間21万円の支給にとどまり、これは官国幣社の規模の神社の経営に必要な経費のおよそ10分の1程度であった。さらに府県社以下の神社に関して定められた地方府の幣帛料供進は、「してもよい」というものであり、義務とはされなかった。このため、神社にとっては大きな経済的なプラスとはならなかった。 さらに、内務省神社局の神社行政も、極めて消極的なものであった。神社局は、「神道は非宗教である」との訓示を力説し、神道独自の宗教思想の表明を制禁することに努め、神葬祭や布教活動などの神職の宗教的活動については喧しく拘束した。また、外来の宗教も全て国体精神と同化しているから論難を行なってはならないとして、神道と他宗教の論戦の抑制にも努めた。神道家の葦津珍彦は、以上のような事情に基づき、神社局は、神道の脱イデオロギー化を徹底し、神道精神を空白化して神道独自の思想表明を放棄させるとともに、仏教、キリスト教など一切の合法的宗教との妥協に神経を労し、国家神道制度を政教分離に矛盾なく存在させることがその主たる業務であったと評している。神社局自体も、内務省内の三等局として扱われており、局長も、地方の県知事や有力局の局長になる前のポスト待ちの場とされ、任官するまで祝詞も神道古典も読んだことの無いような者が来て、1-2年で別のポストへ移る通過駅のような存在になっていった。 1940年(昭和15年)に入って神社局は神祇院へと改組されたが、有効な政策が実行されないまま敗戦により解体した。
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