当時の物価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:36 UTC 版)
当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった。1943年7月時点では二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23 - 30円で、戦地手当を含めてもそれらの倍額で、慰安婦の収入の10分の1または100分の1であった。中将の年俸は5800円程度であった。当時の貨幣価値を企業物価指数で計算すると1931年時点での100円は現在に換算すると88万8903円、1939年では45万3547円、1942年では34万7751円となり、3万円の貯金とは現在での約1億3606万円となる。なお平安北道出身の朴一石(パク・イルソク)が経営していた慰安所「カフェ・アジア」は1937年で資本金2000円で開業し、1940年には資本金6万円となっていた。 日本の大正中期から昭和の第二次世界大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったといわれる。米価は上下変動があり第二次上海事変から特に欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。 慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票という政府紙幣の一種によってなされていた。戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している。また、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり、払戻しを受けられなくなったケースもあった。
※この「当時の物価」の解説は、「日本の慰安婦」の解説の一部です。
「当時の物価」を含む「日本の慰安婦」の記事については、「日本の慰安婦」の概要を参照ください。
- 当時の物価のページへのリンク