当時の浅草の警察
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明治7年(1874年)ごろの浅草は、神社仏閣と繁華街とを抱えた街で人口が多く、事件もまた多かった。その浅草の浅草寺の本坊、癜風インに「浅草巡査屯所」が置かれるようになる。屯所というのは私服刑事の詰め所であり、30人ほどの巡査が交代で詰めていた。この伝法院の屯所がドラマの舞台である。 当時の東京府下には、捜査を担当する屯所が40あった。1871年(明治4年)、フランスの警察制度などを参考に編み出された邏卒制度が採用され、1875年(明治7年)に東京警視庁が設立された。警視庁設立後は、邏卒は巡査となった。巡査屯所は警察署の前身で、現場は屯所、そして事務は警視出張所が担当した。屯所にいつも詰めていたのは巡査長、巡査部長、警務員(刑事)3名、書記、30名の巡査だった。 東京警視庁の管轄は府下全域で、これを六大区に分け、1つの大区は16の小区から構成されていた。屯所は小区に1つの割で設けられ、伝法院の浅草巡査屯所は、第五大区第八小区の屯所であった。ちなみに、伝法院にはかつて新徴組や、維新後の府兵の屯所も置かれていた。屯所の下には交番所が置かれた。警視庁の役職はまず警視総監に当たる大警視、そして権大警視、小警視、権小警視、大警部、権大警部、中警部、権中警部、小警部、権小警部がいた。彼らの下にいる巡査には一等から四等まであり、一等巡査は他の巡査の指揮監督に当たった。 また、制服は、当初は邏卒とその下の番人のみに紺のラシャ製のものが与えられ、この制服に三尺棒で任務に就いた。それ以外の警察官が制服を着るようになったのは、1875年(明治7年)2月7日からで、これはルダンゴト服と呼ばれた。このドラマでは、屯所長の大木一郎太、庄司孫右衛門、難波竹丸が制服を着ている。
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