慰安婦の収入
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日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった。慰安婦への支払いは慰安所経営業者を通じて預金通帳へ半分、残り半分は軍票で支払われ、慰安婦への不払いが起きないよう軍主計局の監査と官憲の監視下で管理されていた。文玉珠のように金銭目的で慰安所に入った場合、故郷に日本円1000円で家を建て、5000円を兄に送ったなどの例もある が、慰安所によっては慰安婦に給与が無い場合もあった。 兵士が支払う慰安所の利用料金については「日本軍の慰安所」を参照 日本軍慰安婦が報酬を得ていたことを示すものとしては以下のものがある。 当時の新聞『京城日報』1944年7月26日の慰安婦募集広告では「月収300円以上、前借金3000円可」と記されていた。吉見義明は「人身売買の業者がよく使う騙しの常とう手段」として、ほとんどが文盲であった朝鮮女性が、総督府の御用新聞であった『京城日報』を読んで応募するとは考えられないので、「主として他の業者への呼びかけだったのではないか」と主張している。 日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を前借金の返済にあてた。同報告によれば稼ぎは月に1000 - 2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もおり、慰安婦には一カ月毎に麦粉2袋、その家族には月毎に雑穀30キロが配給され、慰安婦の衣食住、医薬品、化粧品は軍が無料配給され、兵士の月給は15円 - 25円であったことが記されている。しかし、この日本人戦争捕虜尋問レポート No.49には、業者が食料、その他の物品の代金を慰安婦に要求したので、「彼女たちは生活困難に陥った」とも書かれており、さらにビルマでは1943年頃から酷いインフレになり小林英夫早大教授によると1945年のビルマの物価は東京の1000倍以上になっており ゆえにこれは戦時中の国外での極端なインフレを考慮しない暴論であると吉見は指摘している。 大韓民国大法院は1964年当時に慰安婦として働いていた女性が月5,000大韓民国ウォンの収入を得ていたことを判決文に明記している。 中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという。他方、元日本兵杉本康一によると「確かに兵士たちは、高い賃金を払っていたが」ある日出会った少女の慰安婦が「一銭ももらっていません」と聞いているという。 吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由でラバウルで慰安婦となったといい「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している。 スマラン事件(白馬事件)のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言している。 宋神道は借金が無かったが朝鮮からの旅費、飲食代などの経費を全て借金として背負わされたという。宋の取り分は4割だったが国防献金など様々な名目で経費が加算され、返すまでに7年近くかかったと証言している。 『証言ー強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』によると、慰安の代価を得たのは、19人の内3人に過ぎなかった。 ビルマで慰安婦だった文玉珠によると、チップが貯まり母親へ何軒も家が建つほどの金額を送金したことや、「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった」「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った」という現地の生活状況を証言している。 からゆきさんの場合、北川サキは10歳で売られ、女衒は前借り300円、渡航費用と食事代と利息で2,000円と称したという。大正中期から昭和前期のボルネオでは、一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、それでも毎月百円ぐらいずつは返せた」 といい、それは最少で月110人に相当する(フィリピン政府衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の2倍が娼婦負担にさせられていた)。料金は泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと考えられている)。日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった
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