慰安婦の募集
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「日本人戦争捕虜尋問レポート No.49」の記事における「慰安婦の募集」の解説
まず、1942年5月上旬、日本の斡旋業者たちが、日本が新たに勝ち取った東南アジアの属領で、「慰安役務・慰安奉仕(comfort service)」をさせる朝鮮人女性を徴募するため朝鮮に到着したと記されている。次に、役務の正確な明示はされなかったが、病院で負傷兵の世話をしたり、一般的に言えば兵士を喜ばせるような仕事であると説明されたと述べられている。このように、軍人の性の相手をするという実際の労働内容は説明されておらず、代わりに従軍看護婦と勘違いさせるような虚偽の説明が為されている。これは日本の斡旋業者により、朝鮮人女性が就労詐欺に遭っていた事の裏付けとなっている。 ただし、続いて記述される斡旋業者の勧誘の手法は、以下の訳文の概要にあるように、虚偽の説明にて行われたことが示されている。 斡旋業者が用いる誘いの言葉は、報酬の高さ、家族の負債返済の好機、楽な仕事、シンガポールにおける新生活が待っていると勧誘した。こうした虚偽の説明を信じて、多くの女性が海外任務げと徴募され、数百円の前借金を受け取った。 多くの少女は無知で教育を受けていなかったが、地球上で最も古い職業に以前から携わっていた者もいた 署名による契約によって女性は日本軍による規則と、「慰安所の楼主」に束縛されることとなり、前借金の額に応じて契約期間は6ヵ月から1年間であった。 およそ800人が徴集され、彼女らは1942年8月20日頃、慰安所の楼主に連れられてラングーンに上陸し、8人から22人のグループに分けられ、大抵はビルマの各地の軍拠点の近くの街に派遣された。そのうち4つのグループ(キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤ)がミッチーナーに配属された。
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慰安婦の募集
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日本政府の説明によれば、慰安婦の募集は、多くが民間業者によって行われ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与した。 日本国内(内地・朝鮮)では、慰安所の経営者や仲介業者が、当時の一般的な接客業婦の募集方法と同じやり方で慰安婦を募り、戦地へ引率した:52,53。その際、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」に見られるように、就業詐欺に類する事案も発生し、軍や政府は幾度か業者の選定について注意勧告を行っている。 中国や東南アジアなど日本軍の占領地では、軍人が地元の有力者に協力を呼び掛けて慰安婦を集めることもあった:106。もともと慰安所は、住民に対する非行を防止する目的もあって設置されたが、占領軍という立場上、(軍の方針に反し)住民に対し強制力が働いたケースもあったはずだという指摘もある。 慰安婦は主に朝鮮や内地の民間の斡旋業者が新聞広告などにより募集したが、業者による甘言、就業詐欺も少なくなかったと考えられている。また中国やフィリピン、インドネシアなど占領地域では暴力的な方法による強制連行との証言が多い。朝鮮人元慰安婦の証言では、民間業者による騙し・甘言による誘拐が多く見られるが、これら民間業者による暴力的な強制連行の証言も報告されている。この証言を実証する第三者機関の資料として、1944年に米軍がビルマに於いて捕虜にした朝鮮人慰安婦20名及び慰安所経営者の日本人夫婦2名から聞き取り調査をし作成した日本人戦争捕虜尋問レポート No.49があり、その募集の項に、日本の斡旋業者が就労詐欺により朝鮮人女性を集めていたとの記載がある。十分な情報の得られる証言者43人中、大多数は就業詐欺だが、強制連行も数件存在する。 「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」及び「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」では「他人ノ情欲ヲ満足セシムル為醜行ヲ目的トシテ未成年ノ婦女ヲ勧誘シ誘引シ又は拐去シタル者」を犯罪として処罰するために必要な措置をとることを加盟国に義務付けている。1925年(大正14年)12月、日本もこれに批准したため未成年の婦女(「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」第5条にある満21歳未満の婦女を指す)への勧誘等があった場合には犯罪行為として処罰の対象となったが、その条約の効力は内地のみで台湾や朝鮮などの外地は対象外であった。「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」第11条は締約国が条約を植民地や属地等に実施させようとするときは文書により通告・寄託しなければならない旨を定めており、また「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」第14条は署名国がその署名が植民地や海外属地等を包含しないことを宣言できる旨を定めていたため、日本は条約の規定に基づき朝鮮、台湾、関東租借地、樺太及び南洋委任統治地域を包含しない旨を宣言したためである。 日本国内では、1938年2月23日の内務省発警第五号の「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 により、慰安婦は、事実上醜業(売春)を営み、満21歳以上の伝染病なき者に募集を限定し、身分証明書を発給していた。また、発給の際には本人自らが警察署に出頭すること、親または戸主の承認を得ること、婦女売買や略取誘拐などの無きよう調査すること、正規の許可などの無い募集周旋は認めない事などが取り決められていた。なお、公娼の年齢制限は、内地で18歳以上、朝鮮・台湾で17歳であった。 1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。 1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁 や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。 海軍省の潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている。 キム・ムンギル(金文吉)韓日文化研究所(도시과학연구소)所長(釜山外国語大学校日本語科名誉教授)は2015年、日本の「女性のためのアジア平和国民基金」発刊した文章(1997年)から、中国に駐留していた日本軍部隊が主導的に従軍慰安婦を募集したことを証明する文書を発見したと公表した。文書には、「右の者は当隊付属慰安所管理者で、今回慰安婦連行のため歸那(記事原文ママ)した(帰ってきた)。慰安婦は当隊慰安のため是非必要なので、慰安所経営者の渡航に際しては便宜を取りはからうように」という内容が書かれているとされ、キムは「『連行』という表現に注目すべきだ。日本側が教科書で主張する『連行ではない』という表現と食い違うもので、日本はすぐに歴史歪曲の試みをやめなければならない」と述べている。 「行先 〇〇部隊慰安所」と書かれた朝鮮の新聞の募集広告も残されている。 シンガポールなどでも、新聞広告で募集した例がある 太平洋戦争の生き残りの兵士として知られる小野田寛郎は、1940年前後に商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという:145。 募集に関して軍の関与・強制性、強制連行があったとする考えについては「日本の慰安婦問題#日本軍慰安婦問題の論点」を参照
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