慰安婦の貯金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:36 UTC 版)
元慰安婦の文玉珠は、1992年に日本を訪れ、慰安婦時代の1942年から1944年まで2年半の間にビルマで貯めた郵便貯金の払い戻し請求訴訟「軍事郵便貯金訴訟」を行った。文玉珠は6 - 7千円の残高があるはずだと主張し、その後郵便局の調査で1943年6月から1945年9月までの12回の貯金の記録があり、残高が2万6145円であることが判明した。当時は5000円で東京で一軒家が購入でき、また千円で故郷の大邱に家が一軒買えたといわれ、この貯金だと東京で家5軒が購入できるほどのものだった。また文は5,000円を朝鮮の実家に送っており、現在では1億円ほどの価値となる(秦郁彦の計算)。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ただし、この金は当時の制度では、政策的に初めから意図的に送金者本人でなければ引出せない形にされていることが多く、そもそも残高が文玉珠の想像以上にあったことから文玉珠の親族もこの金を遂に引出せなかった可能性が高い。また、1942年当時の賄い婦の給与は1ヶ月あたり約11円ほどであり、慰安婦の報酬や貯金総額は平均よりもはるかに高額であったともされる。ただし、これらは兵士らが円と俗称していただけで、実際には新ルピー等の日本軍が設けた現地通貨であり、名目上は公定レートが1円=1ルピーであっても、そのまま全額を慰安婦らの母国の通貨に交換できるものではなかった。(つまり、幾らになる筈と言っても、それは名目上だけのことであり、実際にはあまり意味がなかったり、仮りに闇で不正交換できるルートをもっている者にとっても実質価値は格段に下がる筈のものであった。これらは戦後も長らく円と外貨の両替や交換が制限されていたことを知る年配の人間には容易に分かる筈のことだが、この種の説明が昔のことを知らない世代の人間を欺くために意図的に利用されている節がある。)また、戦後解放されて無事母国に戻ることが出来た朝鮮人慰安婦の場合も戻った時点では既にGHQ等の指示で預金が凍結されており、そのまま引出せなかったケースも多い。[独自研究?]上野千鶴子は、文玉珠の貯金は性交労働の代償でなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであり、この訴訟は「名目的な額にしかならない」金銭を要求したものではなく、「道理を求める象徴的な裁判であり、支援者たちにとってもそうであった」と主張している。訴状の請求趣旨に郵便貯金の返還要求は記載されていない。軍事貯金払い戻し請求訴訟は日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとして敗訴した。 李榮薫は、中国漢口の日本人女性130名と朝鮮人女性150名が在籍していた慰安所では、慶子という名前の朝鮮人慰安婦がおり、すでに3万円を貯めたが5万円になったら京城(ソウル)で小料理屋をもつことを夢見ているとの彼女の話が司令官に伝わり「なんとたいしたオナゴであるか」として表彰されたとしている。 戦時中に木更津から朝鮮までの送金を慰安婦に頼まれたラバウル海軍爆撃隊兵士は、200円を送金したが「山梨県の田舎なら小さな家が一軒建てられる」と思ったと証言している。
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