最初の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:49 UTC 版)
「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「最初の決定」の解説
1910年、ヘンリーは英国陸軍省の作戦部長に就任した。ヘンリーは、作戦部長として33名の参謀将校の先頭に立ち、部門を次の5つに分けた。MO1「戦略及び植民地」担当、MO2「欧州」担当、MO3「アジア」担当、それ以外に「地理学」担当と「多方面」担当である。ヘンリーは当初、地図作成部門にしか関心を持っていなかった(そして彼の最初の行動は、彼のオフィスの壁に巨大な仏独間の前線地図を掛ける事だった)。彼は、すぐに部門を次のように編成し直した。MO1(王立軍(イギリス領インド軍を含む)担当。国防義勇軍は故国防衛の一部と見なされ軍事訓練部長に責任を負う。)、MO2(「フランス及びロシア」担当)及びMO3(「三国同盟」担当)。 ヘンリーは、作戦部長として最も重要な任務は、1909年7月の帝国国防委員会(CID Committee of Imperial Defense)の決定に従い、海外派遣軍(BEF)をフランスに展開するための詳細な計画を作成する事だと信じていた。この領域は、前任のグリアスン中将による第一次モロッコ事件中の計画からほとんど前進していなかった。スペンサー・エワート少将(英語版)(グリアスン中将の後任)とウィリアム・ニコルソン参謀本部総長(CIGS)は、フランス駐英武官だったヴィクトル・ユーゲ大佐と取引する事を避けていたからである。ヘンリーが作戦部長として書いた36通の書類中、21通が海外派遣軍(BEF)に属する話を取り上げていた。彼はまた徴兵制度が導入される事も希望していたが、これは徒労に終わった。 ヘンリーは、ホールデイン陸軍大臣が計画した海外派遣軍(それぞれが3個旅団から成る6個師団と4個旅団から成る騎兵師団)の規模を、単に英国国内に適した軍隊の「改造」であると言い、しばしば「回答が6個師団であった事については軍事上の問題はない。」と断言した。フランスのフォッシュ将軍は、ヘンリーに次のように話したと言われている。「英国が伍長と4人の兵士を大陸に派遣してもらえれば幸いであり、伍長らをドイツ軍に殺させると約束する。そうすれば英国は全力で参戦できるだろう。」 フォッシュ将軍は、ロシア訪問から戻ったばかりだったが、もし戦争になった場合、フランスはロシアをあてにできないかもしれないと心配しており、以前にも増して英国の軍事的支援を切望していたのである。フォッシュ将軍は、1910年10月、娘の結婚式にヘンリーとパリの英国駐在武官フェアホルム大佐を招待した。一方、フォッシュ将軍のロンドン訪問(1910年12月6日)の際には、ヘンリーが彼を外務省の終身事務次官であるニコルソン卿に引き合わせた。 1910年、ヘンリーはイートン・プレイス36番地を13年間2,100ポンドで賃借した。彼の給料は当時1,500ポンドで、その家は経済的な負担であり、ヘンリーはしばしばその愚痴を漏らしていた。 ヘンリーと彼のスタッフは、1910年から1911年の冬を「壮大な戦略的ウォーゲーム」を行う事に費やし、列強が戦争勃発時にどう動くかを予想した。
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