最初の渡洋爆撃
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1937年(昭和12年)8月14日、鹿屋空は台北の松山飛行場から九六式陸攻9機を杭州に出撃させたが迎撃を受け、5機が筧橋飛行場と喬司飛行場爆撃を実施し、2機が未帰還となった。別の9機は広徳の飛行場の爆撃に成功したが、迎撃により損傷した1機が基隆に不時着、1機が大破した。一方、大村基地の木更津空は悪天候のため攻撃を延期した。 8月15日、鹿屋空は台北から九六陸攻14機を南昌に向けて出撃させ、増水で飛行場の発見が困難な中を8機が爆撃に成功して全機が帰還した。木更津空は大村から九六陸攻20機を出撃させ、南京の明故宮飛行場と大校場飛行場を爆撃した。南京では戦闘機の迎撃を受けて4機を失い、済州島基地に帰還した。 8月16日、鹿屋空は台北から九六陸攻6機を南京の句容に向かわせて爆撃に成功したが指揮官機を含む2機が迎撃により未帰還となった。別の7機は揚州に向かい爆撃に成功したが指揮官機1機を失った。一方、木更津空は済州島から九六陸攻9機を出撃させ、日暮れ時に蘇州の爆撃に成功し、1機が朝鮮沿岸に不時着した。 この三日間に悪天候を衝いて長躯(往復1000海里以上)東シナ海を横断し、迎撃機や対空射撃の中で敢行された爆撃は渡洋爆撃の名の下に世界的壮挙であるとセンセーショナルに報道され多くの国民に感銘を与えた。しかし壮挙に湧く国民とは別に、実行部隊側では様々な問題点が現出していた。爆撃の効果は大きかったものの、特に九六式陸攻の被害が予想以上に大きく、僅か三日の攻撃で飛行隊長機を含む9機が未帰還、3機が不時着・大破、搭乗員の損失は65名に達した。作戦可能機は鹿屋空が18機が10機に、木更津空が20機が8機と激減した。8月16日付けの戦闘詳報には戸塚司令の統括として「十四、十五および本日の空襲において、わが犠牲の大なりしは、不良なる天候をおかし、警戒厳重なる空軍根拠地を強襲せしによるものと認む。当時、上海方面の情勢は窮迫し、わが空襲部隊の強襲は絶対必要と判断し、あたかも往年の二〇三高地の強襲にもひとしき心境をもって、この種の作戦を敢行せり」と苦しい心境を述べている。
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