最初の渡洋爆撃とは? わかりやすく解説

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最初の渡洋爆撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 17:22 UTC 版)

渡洋爆撃」の記事における「最初の渡洋爆撃」の解説

1937年昭和12年8月14日鹿屋空台北松山飛行場から九六式陸攻9機を杭州出撃させたが迎撃を受け、5機が筧飛行場喬司飛行場爆撃実施し、2機が未帰還となった別の9機は広徳飛行場爆撃成功したが、迎撃により損傷した1機が基隆不時着、1機が大破した一方大村基地木更津空悪天候のため攻撃延期した8月15日鹿屋空台北から九六陸攻14機を南昌向けて出撃させ、増水飛行場発見困難な中を8機が爆撃成功して全機帰還した木更津空大村から九六陸攻20機を出撃させ、南京明故宮飛行場大校飛行場爆撃した南京では戦闘機迎撃受けて4機を失い済州島基地帰還した8月16日鹿屋空台北から九六陸攻6機を南京の句容に向かわせて爆撃成功した指揮官機を含む2機が迎撃により未帰還となった別の7機は揚州向かい爆撃成功した指揮官機1機を失った一方木更津空済州島から九六陸攻9機を出撃させ、日暮れ時に蘇州爆撃成功し、1機が朝鮮沿岸不時着した。 この三日間に悪天候を衝いて長躯往復1000海里以上)東シナ海横断し迎撃機対空射撃の中で敢行された爆撃渡洋爆撃の名の下に世界的壮挙であるとセンセーショナルに報道され多く国民感銘与えた。しかし壮挙に湧く国民とは別に実行部隊側では様々な問題点現出していた。爆撃の効果大きかったものの、特に九六式陸攻被害予想以上に大きく、僅か三日攻撃飛行隊長機を含む9機が未帰還、3機が不時着大破搭乗員損失65名に達した作戦可能機は鹿屋空18機が10機に木更津空20機が8機と激減した8月16日付け戦闘詳報には戸塚司令統括として「十四十五および本日空襲において、わが犠牲大なりしは、不良な天候をおかし、警戒厳重な空軍根拠地強襲せしによるもの認む当時上海方面情勢窮迫し、わが空襲部隊強襲絶対必要判断しあたかも往年の二〇三高地強襲にもひとしき心境をもって、この種の作戦敢行せり」と苦し心境述べている。

※この「最初の渡洋爆撃」の解説は、「渡洋爆撃」の解説の一部です。
「最初の渡洋爆撃」を含む「渡洋爆撃」の記事については、「渡洋爆撃」の概要を参照ください。

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