最初の源氏物語礼讃歌とは? わかりやすく解説

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最初の源氏物語礼讃歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:45 UTC 版)

源氏物語礼讃歌」の記事における「最初の源氏物語礼讃歌」の解説

与謝野晶子1917年大正6年6月4日小林一三宛書簡によると、晶子自身小林一三送った和歌短冊について「昨年末にある人から頼まれ作ったものに推敲重ねたものがこれである」としており、また与謝野夫妻次男与謝野秀回想録『縁なき時計欧羅巴雑記帳』の中の「花菱草」の章によると、大正7年8年年末に『中央公論編集主幹瀧田樗陰与謝野宅に屏風持ってやってきて晶子屏風源氏物語の和歌揮毫することを依頼して承諾を受け、晶子最初ノート書き付けて推敲し、「明後日の夜までに」という約束1919年大正8年12月30日の朝に受け取りに来た瀧田樗陰待たせて屏風清書して作られたとされている。「最初ノート書き付けて推敲した」ことなどから、この種の讃歌最初に作られたのはこのときのものであると考えられている。 その後翌年1月になって作られ小林一三宛に送られ、現在逸翁美術館において「源氏物語短冊五十」として所蔵されているものが、作成の経緯などから見ても、現存する中では最も制作時期早い見られていた。しかし、もともと正宗敦夫送られ、現在天理大学附天理図書館所蔵となっている歌帖「源氏物語の巻々を詠め短歌五十四首」が、「大正己未(=1919年大正8年))夏」の日付を持つことから、晶子や秀の証言反して、より古い成立である可能性があるとも考えられている。これについては、晶子自身書簡記述や秀の記憶誤っているとは考え難いことと、天理図書館所蔵本の本文逸翁美術館所蔵本の本文よりむしろ、それ以後作られとされる京都府立総合資料館小林天眠文庫所蔵本の本文に近いことを考えると、天理図書館本は1920年大正9年以降成立であり、「大正己未(=1919年大正8年))夏」とされる干支は「書き誤られた」と考えるべきなのではないかとする見方もある。

※この「最初の源氏物語礼讃歌」の解説は、「源氏物語礼讃歌」の解説の一部です。
「最初の源氏物語礼讃歌」を含む「源氏物語礼讃歌」の記事については、「源氏物語礼讃歌」の概要を参照ください。

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