最初の波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 06:43 UTC 版)
「アルメニア系アメリカ人」の記事における「最初の波」の解説
19世紀末になると、それまでとは比較にならない人数のアルメニア人がアメリカへ渡ってくるようになったが、その主な契機となったのは、オスマン帝国で1890年代半ばに発生したハミディイェ虐殺(ロシア語版) ハミディイェ虐殺(英語版)と、続く1915年に発生したアルメニア人虐殺だった。この移民の波以前には、アルメニア系アメリカ人の数は1500人から3000人で、その大部分は非熟練労働者であった。 1890年代を通して、1万2000人を超すアルメニア人がオスマン帝国から逃れてきた。豊かな農業地帯であったフレズノを除いては、最初期のアルメニア移民たちはニューヨーク、プロビデンス、ウースターやボストンといった合衆国北東部の工業地帯へ定着した。ロシア帝国出身のアルメニア人はこの時期の移民のなかでも少数派だったが、それはロシアでのアルメニア人の扱いがオスマンでのそれよりも良かったことによる。この頃には、アメリカや故国での様々な問題に対処するために、アルメニア人たちによる政党も結成されていた。1910年代も、オスマン出身のアルメニア移民の数は漸増したが、これには1912年から翌年にかけてのバルカン戦争や、1919年に発生したアダナ虐殺(英語版)も影響している。第一次世界大戦の開戦までに渡米したアルメニア人の数は、おおよそ6万人である。 移民帰化局(英語版)の調べによると、1899年から1917年にかけて入国したアルメニア人の数は5万4057人で、彼らの主な受け入れ元は、オスマン(4万6474人)、ロシア(3034人)、カナダ(1577人)、イギリス(914人)、エジプト(894人)だった。また、行き先として彼らが挙げた場所は、ニューヨーク州(1万7391人)、マサチューセッツ州(1万4192人)、ロードアイランド州(4923人)、イリノイ州(3313人)、カリフォルニア州(2564人)、ニュージャージー州(2115人)、ペンシルベニア州(2002人)、ミシガン州(1371人)となっている。この時点で大きなアルメニア人コミュニティが形成されていたのは、ニューヨーク、フレズノ、ウースター、ボストン、フィラデルフィア、シカゴ、ジャージーシティ、デトロイト、ロサンゼルス、トロイ、クリーブランドなどであった。 1919年までには7万7980人ほどのアルメニア人がアメリカに居住していたと推定され、1920年には空前の数のアルメニア人が流入したが、その後1924年移民法の制定によって、南欧と東欧からのアルメニア移民は規制の対象とされた。第一次大戦前の移民は多くが若者と男性であったが、大戦後には、対照的にそのほとんどが女性と子供となっている。また、アルメニア移民たちは、故郷の同じ町や村の出身者同士でコミュニティを形成するという点で、イタリア移民と似た特徴を持っていた。しかし、この傾向は第二次世界大戦後にはほぼ見られなくなっている。移民たちは、差別や居住制限などの反アルメニア感情(英語版)にも直面し、中部カリフォルニアに住んでいたアルメニア人は「フレズノのインディアン」や「下層ユダヤ人」などとも呼ばれた。
※この「最初の波」の解説は、「アルメニア系アメリカ人」の解説の一部です。
「最初の波」を含む「アルメニア系アメリカ人」の記事については、「アルメニア系アメリカ人」の概要を参照ください。
- 最初の波のページへのリンク