最初の海外留学とは? わかりやすく解説

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最初の海外留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:51 UTC 版)

ホセ・リサール」の記事における「最初の海外留学」の解説

リサール1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校卒業、翌1882年サント・トマス大学医学部修了した後、同年中にヨーロッパへ旅立った1882年6月13日マルセイユに、6月15日バルセロナ到着した後、最終目的地であったスペイン首都マドリード到着し同年10月国立マドリード大学医学部と哲文学部の両学部入学したマドリード大学リサール猛勉強し、26歳までにスペイン語フランス語イタリア語ポルトガル語カタルーニャ語中国語、英語、ドイツ語オランダ語スウェーデン語ロシア語ラテン語ギリシャ語ヘブライ語サンスクリット語などの諸言語習得し中国語日本語タガログ語ビサヤ語イロカノ語研究していた。大学時代同級生には後に哲学者として著名になるミゲル・デ・ウナムーノがおり、リサールと同じ学級ギリシャ語学んでいる。1885年6月マドリード大学の哲文学博士医学士学位取得したが、金銭事情により医学博士号取得できなかった。マドリード大学出た後、1885年7月から1886年1月までパリ大学フランス語眼科学学び、この時にフランス革命の「人権宣言」をタガログ語翻訳している。1886年2月から1887年5月までドイツ帝国ハイデルベルク大学ライプツィヒ大学ベルリン大学引き続き医学と、加えて社会学学びドイツ語書いた社会学論文評価されドイツ国籍の取得薦められたが、これを固辞している。ドイツ滞在中の1887年2月21日ベルリン小説『ノリ・メ・タンヘレ(英語版)』(Noli Me Tángere, ラテン語で『我に触れるな』の意)を出版した1887年7月3日26歳にしてヨーロッパ離れ同年8月5日フィリピン戻ったフィリピン帰国暫く出身地カランバ医者として従事していたが、間もなく同年出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンスペイン植民地支配層から問題にされたため、身の危険感じたリサール27歳にして再び留学へと旅立った

※この「最初の海外留学」の解説は、「ホセ・リサール」の解説の一部です。
「最初の海外留学」を含む「ホセ・リサール」の記事については、「ホセ・リサール」の概要を参照ください。

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