紛争年表とは? わかりやすく解説

紛争年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:02 UTC 版)

ピュロス戦争」の記事における「紛争年表」の解説

紀元前282年 プブリウス・コルネリウス・ドラベッラが率い10隻のローマ船がターレス沖に現れる。[A] ターレスのフィロカリスがプブリウス・コルネリウスの行動以前締結され条約違反しているとし、ローマ船団攻撃。4隻を撃沈、1隻を拿捕ターレス軍がローマ軍守備するトゥリオイを攻撃しローマ軍追い出して都市略奪するローマターレス使節派遣するが、ターレスは彼らを嘲笑して交渉拒否ローマ元老院ターレス宣戦布告執政官ルキウス・アエミリウス・バルブラサムニウムとの戦争中止しターレスに向かう。 紀元前281年 ターレスピュロス使節派遣してローマからの防衛依頼するピュロスサムニウムルカニアおよびメサッピアが歩兵50,000騎兵20,000提供するとの約束に心を動かされ遠征決意するピュロス、アンティオクコス1世資金を、アンチゴヌス2世イタリアまでの輸送用の船を依頼するプトレマイオス2世2年期限付き歩兵5,000騎兵2,000提供するピュロス留守中の本国防衛プトレマイオス2世委託する紀元前280年 ピュロス、キネアスをターレス先行させる。 ピュロスミロターレスに送る。 ピュロスイタリアへ向かって出帆ピュロスターレス到着戦象も伴う。 サムニウムルカニア、ブルッティウム、メサッピア、ピュロス同盟ピュロスローマとの交渉提案ピュロスヘラクレアの戦いプブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス率いローマ軍勝利ロクリピュロス加担レギオンローマ防衛依頼守備ローマ軍カンパニア兵)、反乱起こしてレギオン占拠執政官ティベリウス・コルンカニウスローマ防衛のためにエトルリアから呼び戻される執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス新たな軍団補充を受ける。 ピュロスカプアに向かう。プブリウス・ウァレリウス、カプア守備ピュロスネアポリス付近に上陸するも何も得ずピュロスラティウムアナーニまたはフレゲラエまで進出続いてエトルリアへ向かう。 ピュロスエトルリアが既にローマ講和したことを知る;二人執政官ピュロス追尾ピュロス撤退してカンパニア接近。ラエウィヌスがこれに相対するが、ピュロス戦闘避けてターレス撤退カルタゴ軍司令官マゴが140隻の船団率いてローマ訪れ支援提案するローマ元老院はこれを拒否マゴピュロス個人的に訪問し和平提案を行う。実際にピュロスシケリア侵攻意図を探るためであった。 ガイウス・ファブリキウス・ルスキニスが捕虜返還交渉のためピュロス訪れる。ピュロス停戦提案するが、ファブリキウスにその権限がないと知り身代金要求せずに捕虜開放した。[B] ピュロス、キネアスをローマ送り、平和と休戦交渉行わせる元老院は一旦は講和に傾くも、アッピウス・クラウディウス・カエクスがこれに反対結果元老院継戦決定。 キネアス、ピュロスのもとに戻りローマ軍兵力ヘラクレアの戦いの際の2倍、さらに多く予備兵を持つと伝え紀元前279年 ピュロスアプリア侵入しローマ軍対峙ピュロスアスクルムの戦いローマ軍勝利する損害甚大カルタゴローマ同盟を結ぶ。 ガイウス・ファブリキウス、ピュロス医師彼に毒を盛ろうとしていたことを知りピュロスにこれを知らせる。 シケリアギリシア人植民都市ピュロスカルタゴとの戦争依頼ピュロスこれを受諾。 キネアス、再びローマ訪れ和平交渉を行うも、拒否される。 ローマ・カルタゴ連合軍レギオン遠征奪還はならずも、ピュロス船の建造のために用意していた木材を焼く。 紀元前278年-紀元前275年 カルタゴ艦隊シュラクサイ封鎖ピュロスイタリア離れシケリアに向かう。 ピュロスカタナ上陸陸路シュラクサイに向かう。カルタゴ艦隊封鎖解いて撤退。 ソシストラトスとトエノン、シュラクサイピュロスに渡す。ピュロス両者調停多くのシケリア・ギリシア都市ピュロス援助申し出るピュロス以前にソシストラトスに属していたアクラガスおよび他の30都市支配権を得る。 ピュロスシケリアへ渡ると、執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスレギオン派遣され、これを奪還反乱兵はローマ送られ処刑されるピュロスシケリアカルタゴ領への攻撃開始ピュロスヘラクレア・ミノア、アゾネス、エリュクスパノルムス占領。他のカルタゴ都市カルタゴ支配下都市降伏ピュロスマメルティニ勝利。[C] ピュロスカルタゴ最後拠点であるリリュバイオンの攻撃城戦開始カルタゴ交渉開始ピュロスカルタゴシケリア放棄要求包囲2ヶ月の後、リリュバイオンの攻略断念ピュロスアフリカカルタゴ本土侵略するための船団建設決定ピュロス艦船乗員確保のため、シケリアギリシア都市に対して独裁的強要的態度で臨む。 ピュロス反逆罪でトエノンを処刑。その独裁的支配シケリアギリシア都市反感生むシケリアギリシア都市ピュロス反乱いくつかの都市カルタゴにつき、いくつはかマメリティニと協力紀元前275年 ピュロスターレスサムニウムから救援を願う書簡を受けとる。これを口実として、シケリア離れイタリアに戻ることを決定イタリアに向かう途中、嵐に遭遇。またメッシーナ海峡カルタゴ海軍攻撃される。[D] [E] マメルティニイタリア本土ピュロスと戦う。戦象含め多くの兵が戦死ピュロス負傷する戦闘には勝利。[F] 執政官マニウス・クリウス・デンタトゥスクロトン部隊追放し、街を占領ロクリスローマ側につく ピュロスロクリス略奪しペルセポネー宝物も奪う。[F] ピュロス船団ロクリス離れた後に嵐に遭遇執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスはルカニアと、同マニウス・クリウス・デンタトゥスサムニウムと戦う。 ローマ軍ベネウェントゥムの戦いピュロス勝利ピュロスイタリアを去る。ピュロス戦争終了。 [A] 船団率いていたのは、アッピアノスによると元執政官のプウリウス・コルネリウス・ドラベッラ、カッシウス・ディオによると執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス、ゾナラスによると、ルキウス・ウァレリウス「提督」。 [B] カッシウス・ディオによるとキネアスはピュロスとファブリキウスの交渉以前ローマ派遣されたとし、プルタルコスその後とする。 [C] マメルティニ派遣され使節に関してプルタルコスのみが触れている。より詳細記述をしているシケリアのディオドロスは、この件には触れていない。 [D] この戦闘プルタルコスアッピアノス触れているが、ハリカルナッソスのディオニュシオス記していない。 [E] ディオニュシオスによると、ピュロスイタリアに向かう途中に嵐にあったとする。アッピアノスは嵐に遭遇したのはロクリス出帆後とする。 [F] アッピアノスカッシウス・ディオペルセポネー宝物ロクリス略奪されたとし、ディオニュシオスシュラクサイ出来事とする。

※この「紛争年表」の解説は、「ピュロス戦争」の解説の一部です。
「紛争年表」を含む「ピュロス戦争」の記事については、「ピュロス戦争」の概要を参照ください。

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