紛争年表
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紀元前282年 プブリウス・コルネリウス・ドラベッラが率いる10隻のローマ船がターレス沖に現れる。[A] ターレスのフィロカリスがプブリウス・コルネリウスの行動は以前に締結された条約に違反しているとし、ローマ船団を攻撃。4隻を撃沈、1隻を拿捕。 ターレス軍がローマ軍が守備するトゥリオイを攻撃し、ローマ軍を追い出して都市を略奪する。 ローマがターレスに使節を派遣するが、ターレスは彼らを嘲笑して交渉を拒否。 ローマ元老院、ターレスに宣戦布告。 執政官ルキウス・アエミリウス・バルブラはサムニウムとの戦争を中止し、ターレスに向かう。 紀元前281年 ターレス、ピュロスに使節を派遣してローマからの防衛を依頼する;ピュロスはサムニウム、ルカニアおよびメサッピアが歩兵50,000、騎兵20,000を提供するとの約束に心を動かされ、遠征を決意する。 ピュロス、アンティオクコス1世に資金を、アンチゴヌス2世にイタリアまでの輸送用の船を依頼する。プトレマイオス2世は2年の期限付きで歩兵5,000と騎兵2,000を提供する。ピュロスは留守中の本国の防衛をプトレマイオス2世に委託する。 紀元前280年 ピュロス、キネアスをターレスに先行させる。 ピュロス、ミロもターレスに送る。 ピュロス、イタリアへ向かって出帆。 ピュロス、ターレスに到着。戦象も伴う。 サムニウム、ルカニア、ブルッティウム、メサッピア、ピュロスと同盟。 ピュロス、ローマとの交渉を提案。 ピュロス、ヘラクレアの戦いでプブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス率いるローマ軍に勝利。 ロクリ、ピュロスに加担。 レギオン、ローマに防衛を依頼。守備のローマ軍(カンパニア兵)、反乱を起こしてレギオンを占拠。 執政官ティベリウス・コルンカニウス、ローマ防衛のためにエトルリアから呼び戻される。 執政官プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス、新たな軍団の補充を受ける。 ピュロス、カプアに向かう。プブリウス・ウァレリウス、カプアを守備。 ピュロス、ネアポリス付近に上陸するも何も得ず。 ピュロス、ラティウムのアナーニまたはフレゲラエまで進出、続いてエトルリアへ向かう。 ピュロス、エトルリアが既にローマと講和したことを知る;二人の執政官がピュロスを追尾。 ピュロス、撤退してカンパニアに接近。ラエウィヌスがこれに相対するが、ピュロスは戦闘を避けてターレスに撤退。 カルタゴ軍の司令官マゴが140隻の船団を率いてローマを訪れ、支援を提案する。ローマ元老院はこれを拒否。 マゴはピュロスを個人的に訪問し、和平の提案を行う。実際にはピュロスのシケリア侵攻の意図を探るためであった。 ガイウス・ファブリキウス・ルスキニスが捕虜返還交渉のためピュロスを訪れる。ピュロスは停戦を提案するが、ファブリキウスにその権限がないと知り、身代金を要求せずに捕虜を開放した。[B] ピュロス、キネアスをローマに送り、平和と休戦の交渉を行わせる。 元老院は一旦は講和に傾くも、アッピウス・クラウディウス・カエクスがこれに反対、結果元老院は継戦に決定。 キネアス、ピュロスのもとに戻り、ローマ軍の兵力はヘラクレアの戦いの際の2倍、さらに多くの予備兵を持つと伝える 紀元前279年 ピュロス、アプリアに侵入し、ローマ軍と対峙。 ピュロス、アスクルムの戦いでローマ軍に勝利するも損害甚大。 カルタゴとローマ、同盟を結ぶ。 ガイウス・ファブリキウス、ピュロスの医師が彼に毒を盛ろうとしていたことを知り、ピュロスにこれを知らせる。 シケリアのギリシア人植民都市、ピュロスにカルタゴとの戦争を依頼。ピュロスこれを受諾。 キネアス、再びローマを訪れ和平交渉を行うも、拒否される。 ローマ・カルタゴ連合軍のレギオン遠征。奪還はならずも、ピュロスが船の建造のために用意していた木材を焼く。 紀元前278年-紀元前275年 カルタゴ艦隊、シュラクサイを封鎖。 ピュロス、イタリアを離れシケリアに向かう。 ピュロス、カタナに上陸、陸路シュラクサイに向かう。カルタゴ艦隊、封鎖を解いて撤退。 ソシストラトスとトエノン、シュラクサイをピュロスに渡す。ピュロスは両者を調停。 多くのシケリア・ギリシア都市がピュロスに援助を申し出る。 ピュロス、以前にソシストラトスに属していたアクラガスおよび他の30の都市の支配権を得る。 ピュロスがシケリアへ渡ると、執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスがレギオンに派遣され、これを奪還。反乱兵はローマに送られ処刑される。 ピュロス、シケリアのカルタゴ領への攻撃を開始。 ピュロス、ヘラクレア・ミノア、アゾネス、エリュクス、パノルムスを占領。他のカルタゴ都市、カルタゴ支配下の都市も降伏。 ピュロス、マメルティニに勝利。[C] ピュロス、カルタゴ最後の拠点であるリリュバイオンの攻撃城戦を開始。 カルタゴ、交渉を開始。ピュロスはカルタゴにシケリア放棄を要求。 包囲2ヶ月の後、リリュバイオンの攻略を断念。 ピュロス、アフリカのカルタゴ本土を侵略するための船団建設を決定。 ピュロス、艦船の乗員確保のため、シケリアのギリシア都市に対して独裁的、強要的な態度で臨む。 ピュロス、反逆罪でトエノンを処刑。その独裁的支配がシケリアのギリシア都市の反感を生む。 シケリアのギリシア都市、ピュロスに反乱。いくつかの都市はカルタゴにつき、いくつはかマメリティニと協力。 紀元前275年 ピュロス、ターレスとサムニウムから救援を願う書簡を受けとる。これを口実として、シケリアを離れイタリアに戻ることを決定。 イタリアに向かう途中、嵐に遭遇。またメッシーナ海峡でカルタゴ海軍に攻撃される。[D] [E] マメルティニ、イタリア本土でピュロスと戦う。戦象も含め多くの兵が戦死。ピュロスも負傷するが戦闘には勝利。[F] 執政官マニウス・クリウス・デンタトゥス、クロトンの部隊を追放し、街を占領。 ロクリス、ローマ側につく ピュロス、ロクリスを略奪し、ペルセポネーの宝物も奪う。[F] ピュロスの船団、ロクリスを離れた後に嵐に遭遇。 執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスはルカニアと、同マニウス・クリウス・デンタトゥスはサムニウムと戦う。 ローマ軍ベネウェントゥムの戦いでピュロスに勝利。 ピュロス、イタリアを去る。ピュロス戦争終了。 [A] 船団を率いていたのは、アッピアノスによると元執政官のプウリウス・コルネリウス・ドラベッラ、カッシウス・ディオによると執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス、ゾナラスによると、ルキウス・ウァレリウス「提督」。 [B] カッシウス・ディオによるとキネアスはピュロスとファブリキウスの交渉以前にローマに派遣されたとし、プルタルコスはその後とする。 [C] マメルティニに派遣された使節に関してはプルタルコスのみが触れている。より詳細な記述をしているシケリアのディオドロスは、この件には触れていない。 [D] この戦闘はプルタルコスとアッピアノスが触れているが、ハリカルナッソスのディオニュシオスは記していない。 [E] ディオニュシオスによると、ピュロスはイタリアに向かう途中に嵐にあったとする。アッピアノスは嵐に遭遇したのはロクリス出帆後とする。 [F] アッピアノスとカッシウス・ディオはペルセポネーの宝物はロクリスで略奪されたとし、ディオニュシオスはシュラクサイの出来事とする。
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