紛争後の大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 15:04 UTC 版)
紛争の急展開の終結の理由として共産主義者同盟(ブント)の学生組織である社会主義学生同盟の存在がある。紛争は、三派全学連のなかでブントがもつ主導権の奪取を図った他の2派と体育会、理事会が通じ、ブントが焦燥から全学連内部のブント勢力維持のために当局と妥協し、結果「ブント裏切り」という指弾を他の党派から集中的に受けることとなった。 明大の学生組織に強い影響力を行使していた三派全学連を構成していたブントは、「暁の調印」の責任を他派(解放派、中核派)から指弾され、結局斎藤委員長は辞任し、後任に中核派から秋山勝行(横浜国立大学生)がついた。 批判からの名誉挽回のためにこの後奮闘した活動家の中には、後に東大安田講堂事件で籠城し、よど号ハイジャック事件の立案者の一人となった上原敦男(二部政経学部生)や東大工学部列品館守備隊長米田隆介(商学部生)、日本赤軍創設者重信房子(二部文学部生)、連合赤軍山岳ベース事件で犠牲になった遠山美枝子(二部法学部生)らがいる。 斎藤委員長や大内委員長は紛争後退学処分となった。 明大紛争は、たまたま明大で1966年に三派全学連が結成されていたことで、党派の派閥抗争のうちに学生側の全面敗北という形で終結した。
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