マルクス・ウァレリウス・ウォルススとは? わかりやすく解説

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マルクス・ウァレリウス・ウォルスス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/09 09:42 UTC 版)

マルクス・ウァレリウス・ウォルスス
Marcus Valerius Volusus
(M. Valerius Volusi f. Volusus)
出生 不明
死没 紀元前496年
死没地 レギッルス湖畔
出身階級 パトリキ
氏族 ウァレリウス氏族
官職 執政官(紀元前505年)
トリブヌス・ミリトゥム(紀元前508年)
後継者 ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス
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マルクス・ウァレリウス・ウォルスス(Marcus Valerius Volusus)またはウォレスス(Volesus)またはマルクス・ウァレリウス・ウォルスス・マクシムス紀元前505年共和政ローマ執政官(コンスル)である。同僚執政官はプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスであった。

経歴

初期のキャリア

紀元前508年、前年追放された元ローマ王タルクィニウス・スペルブスの亡命先である、クルシウムの王ラルス・ポルセンナが軍を率いてローマへ侵攻すると、指揮官の一人として防衛戦に加わったと思われる。

コンスルシップ

紀元前505年、執政官就任中にサビニ族との戦闘に勝利し凱旋式を挙行している。リウィウスはただその事実を伝えるのみで、詳細は不明。

最後

紀元前496年ラテン同盟との間にレギッルス湖畔の戦いが発生、ローマは戦闘には勝利したものの、ウォルススは戦死した。ラテン同盟軍にはタルクィニウス・スペルブスとその子セクストゥスが加わっていたが、ウォルススはセクストゥスを殺そうとして敵陣に突っ込み、逆に彼の兵に殺害されたとされる。

一族

父はウァレリウス・ウォルススであり、兄弟に紀元前509年508年507年504年の執政官を務めたプブリウス・ウァレリウス・プブリコラ紀元前494年独裁官であるマニウス・ウァレリウス・マクシムスがいる。

子息のルキウス・ウァレリウス・ポティトゥスは紀元前483年470年に執政官となっている。

参考資料

関連項目

先代:
スプリウス・ラルキウス・ルフス、
ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス
共和政ローマ執政官
同僚:プブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥス
紀元前505年
次代:
プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ
ティトゥス・ルクレティウス・トリキピティヌス



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