ペロポネソス戦争からテーバイの覇権まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 08:58 UTC 版)
「ボイオーティア」の記事における「ペロポネソス戦争からテーバイの覇権まで」の解説
ペロポネソス戦争では、ボイオーティアはアテナイと徹底的に戦った。ニキアスの平和以降スパルタとは少し疎遠になったが、ボイオーティア人は近隣諸国に対する恨みをやわらげることはけっしてなかった。ペロポネソス戦争の最後の数年は、シケリア遠征、アルギヌサイの海戦(紀元前406年)に、貢献した。しかし、ボイオーティアの最大の業績は、デリオンの戦い(英語版)(紀元前424年)でのアテナイ軍に対する決定的勝利だった。この戦いでボイオーティアの重歩兵ならびに騎兵は尋常ならざる効果的な働きを見せ、紀元前423年のタナグラの戦いでは、スパルタがアテナイを打ち負かすのを支援した。しかし、その2ヶ月後、アテナイは軍勢を再編し、オイノピュタの戦いでテーバイを破り、ボイオーティアを制圧し、スパルタが作った城壁は壊された。この勝利とともに、アテナイは戦争の発端となったポーキス、ならびに東ロクリスを占領した。 この当時のボイオーティア同盟は11の独立国およびそれと関係する町から成っていて、それぞれの国が、1人のボイオタルケス(en: Boeotarch, 軍および外交大臣)を選出し、テーバイの同盟議会に60人の代議員を送り、同盟軍に1,000人の歩兵と100頭の馬を提供した。中央政府の一部の不当な侵犯に対する自衛は、個々の都市の議会において定められていた。それに限らず、地方議会では、あらゆる重要な政策問題が上申のうえ承認されることになっていた。そのメンバーは資産階級のみで4つの部門に分かれていた。これは、すべての新議案を交替で投票するアテナイ議会のプリュタネイス (Prytaneis) に似ていた。 ボイオーティアはコリントス同盟の一員としてスパルタとのコリントス戦争、とくにハリアルトスの戦い(英語版)(紀元前395年)ならびにコロネイアの戦い (紀元前394年)で重要な役割を果たした。この政策の変化は他国の干渉に対する民族的敵意が主にあったように思われる。テーバイに対する不満はまだくすぶっていて、スパルタがアンタルギダスの平和(紀元前387年)で全都市の完全独立を要求したことで、その不満はさらに増大した。しかし、紀元前379年にはペロピダスとエパメイノンダスがテーバイの支配権を取り戻してから、その支配は二度と覆されることはなかった。 ボイオーティア人たちは、テーバイのエパメイノンダスが指揮した対スパルタ戦争のすべての戦いに参加した。最も知られているのは、レウクトラの戦い(紀元前371年)である。スパルタを破ったテーバイは、エパメイノンダスのもとで約10年にわたりギリシャの覇権を握る。 同盟の法はこの地方のいたるところに民主政治に従ってもたらされた。主権は(7人から12人の)ボイオタルケスたち (Boeotarch) から構成され、すべての法を批准する、人民会議に与えられた。 ボイオーティアの諸都市は、ポーキスとの第三次神聖戦争(英語版)(紀元前356年 - 紀元前346年)でも活躍を見せるが、テーバイを支援するマケドニア王ピリッポス2世との関係から、テーバイに従っただけだった。カイロネイアの戦い(紀元前338年)でボイオーティア重歩兵は再度めざましい活躍を見せたが、それがボイオーティアの最後の華々しい見せ場となった。
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