ペロポネソス戦争におけるその後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:00 UTC 版)
「デモステネス (将軍)」の記事における「ペロポネソス戦争におけるその後の動き」の解説
紀元前424年、デモステネスとヒポクラテスは、メガラの奪取を試みたが、ブラシダス率いるスパルタ軍に敗れた。デモステネスは、次いでナウパクトスへ転進し、同地の民主派による革命を支援し、ボイオーティア侵攻への兵を集めた。しかし、デモステネスとヒポクラテスはそれぞれの攻撃で連繋をとることができず、ヒポクラテスはデリオンの戦い (Battle of Delium) で敗死してしまう。一方、デモステネスは、シキュオン (Sicyon) を攻撃したが、こちらも敗れた。 デモステネスは、紀元前421年のニキアスの和約の署名者のひとりとなり、これによってペロポネソス戦争の前半が終わった。(このとき同名の別人であるデモステネスが、スパルタを代表して署名している。) 紀元前417年、マンティネイアの戦い(紀元前418年)の後、デモステネスはエピダウロスからのアテナイ軍撤退を指揮した。デモステネスは運動競技会を開催し、エピダウロスの人々が競技に気を取られている間に、アテナイ軍は撤退した。
※この「ペロポネソス戦争におけるその後の動き」の解説は、「デモステネス (将軍)」の解説の一部です。
「ペロポネソス戦争におけるその後の動き」を含む「デモステネス (将軍)」の記事については、「デモステネス (将軍)」の概要を参照ください。
- ペロポネソス戦争におけるその後の動きのページへのリンク