中近世的水軍と沿岸警備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 16:48 UTC 版)
江戸幕府には、もともと、戦国大名時代に徳川氏の傘下に入った海賊衆を起源として、船手頭に率いられた水軍が設置されていた。しかし実戦参加は大坂の陣が最後であり、1635年(寛永12年)の武家諸法度の改正による大船建造の禁の発効によって外洋行動能力を喪失した。近世後期の段階では実効的な戦闘能力を失い、実質的には水上警察となっていた。中小の関船や小早が主力となっており、最大の軍船である関船「天地丸」(76挺艪)も、将軍の御座船として華麗な姿ではあったが、軍艦としての実用性は失っていた。 寛政4年(1792年)のアダム・ラクスマンの来航を端緒として外国船の来航が頻繁になると、幕府も、同年にさっそく海岸防禦御用掛を設置したほか、天明5年(1785年)の蝦夷地調査や文化7年(1810年)の会津・白河両藩への江戸内海警備任命など、沿岸警備体制の強化に着手した。また海上戦力の整備も試みられ、嘉永2年(1849年)には、東京湾の海上警備を担当する浦賀奉行所用としてスループ系統の和洋折衷船「蒼隼丸」が竣工、続いて同型船も建造された。しかしこれらも沿岸警備の延長線上であり、近代海軍の創設というよりは、中近世的な水軍の強化というべき施策であった。 このためもあり、嘉永6年(1853年)の黒船来航に際して、御船手や諸藩、浦賀奉行所の軍船の任務は偵察・伝令などに限定され、戦闘的な役割は付与されなかった。
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