中近世の呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)
琵琶湖という呼称の最も古い用例は、木村 (2001, pp. 157f.) によると、室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶景徐周麟の漢詩集『翰林葫盧集』の中の七言絶句「湖上八景」における 瀟湘八幅 其の図案ずるに 長命寺の前 天下に無し 一景新たに添う有声画 袖中に携えて琵琶湖へ去る である。なお、琵琶湖を琵琶の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山延暦寺の僧侶光宗が1311年から1347年(応長元年から貞和3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に 尋云。湖海是弁財天ノ三摩耶形ナル方如何。答。凡水海ノ形ハ琵琶ノ相貌也。 との記述がある。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は江戸時代の儒学者伊藤仁斎による1645年(正保2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない。その後、同じく儒学者の貝原益軒が1689年(元禄2年)に若狭・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある。 およそ淡海の海は、[以下琵琶湖の地形についての記述]。此湖の形はよく琵琶に似たり。堅田より北七里、東西広し。琵琶の腹に似たり。堅田より勢田まで四里は、東西狭し、一里の内外あり。たとえば琵琶に鹿首あるが如くせばし。勢田より宇治まで弥せばし。琵琶の海老尾に比し、竹生島を覆手に比すといへり。故に此湖を琵琶湖と云。 この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、 湖水を琵琶湖と名ずく[ママ]ハ、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を琵琶湖と名づく、因みて神を妙音天女と名く とある。元禄年間から享保年間にかけてはほかにも、松尾芭蕉による俳諧文や朝鮮通信使の申維翰による『海游録』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる。さらに、江戸時代後期には伊能忠敬が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、アイヌ語の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという吉田金彦の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある。
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