中近世の笠間城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:40 UTC 版)
「佐志能神社 (笠間市)」の記事における「中近世の笠間城」の解説
中近世の笠間城の記録には様々な社名が登場する。 文明9年8月(1477年)、笠間綱久が「佐白三社」「佐白三所大明神」を再造したという棟札がある(三所大明神縁起、笠間城記)。他に天文(1532-1555年)、永禄(1558-1570年)の棟札がある(新編常陸国誌) 。 元禄10年(1698年)、本庄宗資が「三社大明神」の社殿を再建した(三所大明神縁起、笠間便覧)。 元禄11年(1699年)、佐白山正福寺の社地に「佐白山六社権現」(新編常陸国誌)または「佐白山三所大権現」(大日本地名辞書)が造立された。 宝暦5年(1755年)、三社大明神を一宇とし「三所大明神」に改めた(三所大明神縁起、新編常陸国誌)。 常陸誌料郡郷考(1860年)は「今笠間城中にあり、三白権現と云ふ」と記した。 新編常陸国誌は佐志能神社を「茨城郡三白山にあり、今三白権現と称す」「祭れる神三座あり、故に三所大明神と称す(文明9年棟札)」とし、これらをすべて同じ社とみなしている。しかし新編常陸国誌が根拠とする「文明9年棟札」は、三所大明神縁起によれば三所神社の由緒に属するため、少なくとも「佐白三社」「三社大明神」「(佐白)三所大明神」は三所神社の古称であって、佐志能神社を指すものではない。天文永禄の棟札については、現在これを由緒としている社寺は不明である。 郡郷考がいう「三白権現」は、「笠間城中にあり」ということから下市毛村の佐志能神社は適さず、西麓の三所大明神、正福寺境内の六社権現またはその他の社のいずれかを指すものと考えられる。
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