中込百貨店
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中込百貨店(英文:NAKAZGZOMI) は、山梨県甲府市丸の内にあった日本の百貨店[1]。
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- 1 中込百貨店とは
- 2 中込百貨店の概要
- 3 かつて存在した店舗
- 4 過去に存在した関連会社
中込百貨店
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元々は、中込良が創業した地元資本の呉服店である「中込呉服店」が甲府市橘町(現在の甲府市丸の内)で営業を行っていた。 戦前は駅前通りの入口の東側角地の場所に2階建コンクリート造のモダンな建物を構えていたが、1945年(昭和20年)7月の甲府空襲で全焼。その後1948年(昭和23年)、株式会社「中込百貨店」に改組。1951年(昭和26年)に山梨県庁舎の南側に木造店舗を建設し、百貨店として本格的な営業を開始した。 商圏内には既に岡島百貨店のほか、1954年(昭和29年)に「甲府松菱」(その後山交百貨店)が開業、さらに1958年(昭和33年)には荻野商店が「オギノ」としてスーパーマーケット業に転換し、既存の商店街とともに客の奪い合いとなった。中込百貨店は核となる百貨店をはじめ、12ものスーパーマーケット「なかごみ」など3社を運営するなど多角化を進めるが、無理な経営が祟り、この頃から資金繰りが悪化する。また、1969年(昭和44年)5月には創業者の中込良が病気で倒れ、代わって1973年(昭和48年)には中込亨が社長に就任した(中込良は1974年4月に死去)。 打開策として従来の木造建物を解体し、1973年(昭和48年)3月に総工費25億円をかけ、地上8階・地下3階、3階建て展望台にガラス張りのエレベーターを完備した新店舗「アーバンなかごみ」としてリニューアルオープン。1974年(昭和49年)には県外資本のダイエーの進出に先駆け、7月には西武流通グループ(後のセゾングループ)の中核会社・西友ストアー(西友)と提携し、15億円の融資を受けた上で、西友80%、中込20%の出資で株式会社中込西友を設立。アーバンなかごみの建物を借りる形で運営した。しかし第1次オイルショックがとどめを刺し、1975年(昭和50年)3月7日に株式会社中込百貨店含む3社が会社更生法適用を申請し経営破綻。負債総額は38億円。 その後中込百貨店は、運営していたスーパーの全店舗を閉店させるなど段階的な事業縮小と人員整理を繰り返し、1979年(昭和54年)10月2日には、株式会社中込百貨店を存続会社として3社が合併。1960年(昭和35年)11月に設立された株式会社中込百貨店不動産部の事業を継承した株式会社なかごみに社名変更した。
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