中込百貨店とは? わかりやすく解説

中込百貨店

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/09 21:04 UTC 版)

株式会社 中込百貨店[1]
NAKAZGZOMI
種類 株式会社
本社所在地 山梨県甲府市丸の内1丁目8番5号[1]
設立 1948年昭和23年)12月27日[2] [3]
業種 小売業
事業内容 百貨店[4][1]
資本金 5000万円[2]
従業員数 165[5]
決算期 8月期[4][6]
主要子会社 (株)中込[1]・中込信用販売(株)[1]・(株)中込百貨店不動産部[1]・山一配送センター[7]
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中込百貨店[1]
NAKAZGZOMI
店舗概要
所在地 山梨県甲府市丸の内1丁目8番5号[1]
延床面積 2,442 m²[1]
商業施設面積 1,925m2 m²[1]
営業時間 9:40-18:00[1]
最寄駅 甲府駅
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中込百貨店英文NAKAZGZOMI) は、山梨県甲府市丸の内にあった日本の百貨店[1]

山梨県内初のディスカウントストア[8]山梨県内初のスーパーマーケットを出店し[9]1970年(昭和45年)頃には山梨県内の主要都市の他に郡部までスーパーの店舗を出店して同県内のスーパーとして圧倒的な首位となっていた[10]

歴史・概要

中込良」が1918年大正7年)に呉服店を創業したのが始まりである[6]

1920年(大正9年)に店舗を新築し[11]1923年(大正12年)10月15日[12]のちの本店の向かい側の場所で「有限会社 中込」を設立した[13]

1945年(昭和20年)に戦災で店舗が焼失した[11]

第2次世界大戦後は、1947年(昭和22年)に店舗を再開したが[11]、当店前が山梨県庁前や春日町映画観前通りと並んで露天商が集まる闇市となっていた[14]。 そして、激しい物価高騰に対抗するために行われた「物価引下げ運動」で設置された「山梨県標準店選定委員会」によって1948年昭和22年)7月22日岡島や松林軒百貨店ともに当店「中込呉服店」も選定され、物価の安定に貢献することになった[15]

1948年(昭和23年)12月27日[2][3]資本金100万円で「株式会社 中込百貨店」を設立し[6]1951年(昭和26年)に建設した[16]木造モルタル3階建ての建物で営業した[1]

1953年(昭和28年)1月2日[6]「味の店」として山梨県庁前に山梨県内初のディスカウントストアを出店した[8]

「なかごみセルフサービス」として[17]甲府市北部の甲府城の堀跡を埋め立てて誕生した新市街地で第2次世界大戦後の住宅街の拡大によって急速に商店街として発展していた朝日町に[18]1955年(昭和30年)8月3日[19]山梨県内初のスーパーマーケットとなった朝日町店を開店した[9]。 この朝日町店の成功により、甲府市内でのスーパーマーケットの展開の契機となったとされている[18]

そして、1956年(昭和31年)11月1日[20]資本金500万円で「株式会社 中込」を設立して[11]味の店分店と朝日町分店を分離・継承し[21]1970年(昭和45年)頃には山梨県内の主要都市の他に郡部までスーパーの店舗を出店して同県内のスーパーとして圧倒的な首位となった[10]

この当社のスーパーの出店により、近隣の食料品店や菓子店などの売上が約30%から約50%減少するなど大きな影響を受けたとされている[17]

1960年(昭和35年)11月9日[3]資本金1000万円で「中込信用販売株式会社」を設立した[21]

しかし、中込百貨店の建物の老朽化が進んで防火・防災上の問題もあったことから増床を兼ねて建て替え工事を行い[16]1973年(昭和48年)3月に[22]「アーバン中込」として新装開店した[16]。 その後、引き続いて第2期の増床工事を進めて1974年(昭和49年)に竣工したものの、オイルショックによる建設費高騰などの影響で資金繰りに行き詰まってしまった[16]。 そこで同年9月に[23]当社が20%・西友が80%を出資した「中込西友」を[16]設立することで合意した[23]。 ところが、1975年(昭和50年)3月7日に会社更生法の適用を申請した[24]、負債総額約55億円を抱えて事実上倒産した[25]。 その後、同年4月5日にスーパーの「中込西友」として新装開店した[26]

その後、1979年(昭和54年)3月に西友が運営する百貨店型店舗の「甲府西武」として新装開店した[27]。 しかし、1988年(昭和63年)の売上高約88億円をピークとして売上が減少した[28]。 そのため、1998年平成10年)2月15日に閉店した[29]。 同年9月18日に店舗跡の土地建物を山梨県が買い取ることを決定し[30]1999年(平成11年)6月24日に「山梨県民情報プラザ」が開館した[31]。「アーバン中込」以来の建物は暫く使用されていたが甲府市中心市街地活性化基本計画の一環により取り壊され、跡地は2013年(平成25年)に「山梨県庁防災新館」が建てられている。

年表

かつて存在した店舗

本店

売場面積1,917m2[35]
1階が化粧品・洋品・玩具・食品売り場で、2階が洋服・生地・文具売り場で、3階が雑貨・家庭用品売り場と特売場だった[6]
第1期増床工事が完成し、新装開店[16]
延べ床面積19,061m2[37]、売場面積8,867m2[37](直営売場面積6,186m2[37]

甲府市

中央

売場面積248m2[39]
食料品・衣料品・雑貨・食堂[39]
山梨県庁前に山梨県内初のディスカウントストアとして出店した[8]
1階が食品売り場で2階が食堂だった[6]
1956年(昭和31年)11月1日の「株式会社 中込」設立[20]と同時に同社に分離・継承された[21]
延べ床面積640m2[42]、売場面積501m2[40][42]
売場面積132m2(開業時)[43]
食料品に加えて雑貨や衣料品も扱う総合スーパーとして開店した[43]山梨県内初のスーパーマーケットであった[9]
1956年(昭和31年)11月1日の「株式会社 中込」設立[20]と同時に同社に分離・継承された[21]
延べ床面積521m2[45]、売場面積約382m2[44][45]
食料品・衣料品・雑貨・食堂[39]
移転新築する形で開店した店舗で[21]、1階が食品売り場で2階が衣料品売り場だった[13]
住宅街に近い朝日通商店街の中の北寄りの地区に出店しており、近隣の店舗も最寄り品を扱う店が多めの立地であった[46]
朝日通商店街初のスーパーであったものの、商店街の各店舗となるほどの集客力がなかったことから売上が伸び悩むようになり、1970年(昭和45年)頃に衣料品売り場を廃止して食品スーパーとなった[47]
1969年(昭和44年)5月に当店に近く朝日通商店街で最も客の多い地区に「浅川スーパー」が出店し、同年12月8日に朝日通商店街の北端に近い場所に「オギノ・ショッピングプラザ」が出店するなど競合するスーパーの出店が相次いだ[48]
朝日通商店街の南端近くに出店した小規模な店舗で、商店街に影響を与えるほどの集客力がなかった[47]
延べ床面積739m2[49]、売場面積630m2[49]
食料品・衣料品・雑貨[49]
1階がセルフサービス式の売り場で2階がクレジット販売の売り場だった[13]
1963年(昭和38年)7月19日に貨物用エレベーターが墜落し、従業員1名が死亡する事故が発生した[32]
延べ床面積396m2[45]、売場面積396m2[40][45]
食料品・衣料品・雑貨[45]
延べ床面積425m2[45]、売場面積396m2[45][40]
延べ床面積898m2[19]、売場面積449m2[19][44]
食料品・衣料品・雑貨[19]

南西部

延べ床面積468m2[42]、売場面積429m2[40][42]
食料品・衣料品・雑貨[42]
延べ床面積1,780m2[45]、売場面積1,750m2[45][40]
食料品・衣料品・雑貨[45]

北部

延べ床面積2,564m2[42]、売場面積996m2[42][40]
食料品・衣料品・雑貨[42]
延べ床面積363m2[45]、売場面積363m2[45][40]
食料品・衣料品・雑貨[45]

峡東地域

延べ床面積766m2[42]、売場面積607m2[42]
延べ床面積1,701m2[49]、売場面積724m2[49][50]
食料品・衣料品・雑貨[49]
根津橋の袂付近に出店し、山梨市商工会が共同仕入れや青年部の結成などを行って当店の出店に対応した[51]
延べ床面積687m2[42]、売場面積414m2[42][50]
食料品・衣料品・雑貨[42]
売場面積1,200m2[52]
延べ床面積492m2[45]、売場面積462m2[45]
食料品・衣料品・雑貨[45]

峡南地域

延べ床面積887m2[42]、売場面積800m2[42]
食料品・衣料品・雑貨[42]
延べ床面積875m2[42]、売場面積749m2[42][50]
食料品・衣料品・雑貨[42]
商店街のほぼ中央部に出店していた[54]
延べ床面積699m2[45]、売場面積660m2[45]
食料品・衣料品・雑貨[45]

峡北地域

延べ床面積809m2[45]、売場面積647m2[45][56]
食料品・衣料品・雑貨[45]
売場面積795m2[41]

郡内地方

延べ床面積945m2[45]、売場面積813m2[45]
食料品・衣料品・雑貨[45]
延べ床面積3,819m2[49]、売場面積3,569m2[49][56]
食料品・衣料品・雑貨[49]
延べ床面積3,564m2[42]、売場面積1,188m2[42][56]
食料品・衣料品・雑貨[42]

過去に存在した関連会社

資本金5000万円[5]、従業員165名[5]
設立と同時に味の店分店と朝日町分店を分離・継承した[21]
資本金5000万円[5]、従業員63名[5]
10ヶ月払いの分割販売を実施していた[21]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『デパート・ニューズ調査年鑑 1968年度版』 デパート・ニューズ社、1968年5月15日。pp265
  2. ^ a b c d 『デパート・ニューズ調査年鑑 1966年度版』 デパート・ニューズ社、1966年4月5日。pp29
  3. ^ a b c d e f 『山梨時事年鑑 1962年 改訂版』 山梨時事新聞社、1962年7月1日。pp408
  4. ^ a b 『日本職員録 第5版 昭和29年版』 人事興信所、1954年。pp会社842
  5. ^ a b c d e f g 『日本職員録 第14版 中』 人事興信所、1972年。ppな25
  6. ^ a b c d e f g h 『全国百貨店専門店会商店会取引業者総覧 昭和32年版』 デパート新聞社、1957年3月15日。pp188-189
  7. ^ 『日本スーパーマーケット名鑑 1967年版』 商業界、1967年。pp36
  8. ^ a b c d 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 通史編 第4巻 現代』 甲府市、1993年3月10日。 pp172
  9. ^ a b c d 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 史料編 第8巻 現代 2』 甲府市、1992年1月10日。 pp231
  10. ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp24
  11. ^ a b c d e f g h 『日本纖維商社銘鑑 昭和34年版』 東京信用交換所、1958年9月15日。pp1169
  12. ^ a b 『デパート・ニューズ調査年鑑 1967年度版』 デパート・ニューズ社、1967年4月30日。pp279
  13. ^ a b c d 『大型販売店調査年鑑 1964年版』 富士経済、1964年5月15日。ppD-77
  14. ^ 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 通史編 第4巻 現代』 甲府市、1993年3月10日。 pp163
  15. ^ a b 『山梨県商工会議所五十年史』 甲府商工会議所、1960年11月20日。 pp457-458
  16. ^ a b c d e f g h i j k 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 通史編 第4巻 現代』 甲府市、1993年3月10日。 pp415
  17. ^ a b 『山梨県商工会議所五十年史』 甲府商工会議所、1960年11月20日。 pp484
  18. ^ a b 甲府市市史編さん委員会 『甲府市史 史料編 第8巻 現代 2』 甲府市、1992年1月10日。 pp266
  19. ^ a b c d e f g h i 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp305
  20. ^ a b c d e 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp668
  21. ^ a b c d e f g h i j k 『日本繊維商社銘鑑 昭和36年版』 東京信用交換所、1961年9月15日。pp1479
  22. ^ a b c 山梨県議会事務局 『山梨県民主議会史 第7巻』 山梨県議会、1976年3月31日。 pp790
  23. ^ a b c 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表-4-』 長崎県立国際経済大学論集 20号(3/4) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1987年3月)。pp64
  24. ^ a b “緊急レポート 存立基盤さえ揺らぐ百貨店 暗く険しい“蘇生”への道”. 週刊ダイヤモンド 1975年4月5日特大号 (ダイヤモンド社) (1975年4月5日).pp16-19
  25. ^ a b 小林武彦 “企業倒産の現状と今後の見通し”. 信用金庫 1976年2月号 (全国信用金庫協会) (1976年2月10日).pp33
  26. ^ a b c “成長に限界がきた百貨店”. 商業界 1975年7月号 (商業界) (1975年7月).pp45-53
  27. ^ a b 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表-5-』 長崎県立国際経済大学論集 21号(4) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1988年3月)。pp36
  28. ^ “県内経済トピックス(10月を中心として)”. 山梨中央銀行調査月報 1997年12月 No.239 (山梨中央銀行) (1997年12月).pp10
  29. ^ a b c 山梨県議会事務局 『山梨県民主議会史 第13巻』 山梨県議会、2000年3月23日。 pp775
  30. ^ a b 山梨県議会事務局 『山梨県民主議会史 第13巻』 山梨県議会、2000年3月23日。 pp777
  31. ^ a b “丸の内八番街商店街”. いっとじゅっけん 1999年11月号 (経済産業調査会) (1999年11月).pp18-19
  32. ^ a b c 『山日年鑑 1964年版』 山梨日日新聞社、1964年8月25日。pp29
  33. ^ 『山梨県警察年鑑 昭和49年版』 山梨県警察本部、1975年。pp7
  34. ^ “流通最前線からの報告”. 中央公論経営問題 1975年6月号 (中央公論社) (1975年6月).pp188-200
  35. ^ a b c 『食品工業総合名鑑』 光琳書院、1964年。pp15-7
  36. ^ “銀行異動状況・12月”. 金融財政事情 1976年4月号 (金融財政事情研究会) (1976年4月1日).pp55
  37. ^ a b c “街のルポ・甲府”. ショッピングセンター 1975年3月号 (日本ショッピングセンター協会) (1975年3月1日).pp22
  38. ^ 『食品工業総合名鑑 1964年版』 光琳書院、1964年4月28日。pp15-7
  39. ^ a b c d e 『日本セルフ・サービス年鑑 1966年版』 日本セルフ・サービス協会、1965年11月10日。pp551
  40. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp403
  41. ^ a b c 『日本セルフ・サービス年鑑 1970年版』 日本セルフ・サービス協会、1970年3月20日。pp237
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp306
  43. ^ a b c 建野堅誠 『日本スーパー発達史年表-1-』 長崎県立国際経済大学論集 16号(2) (長崎県立国際経済大学学術研究会) (1982年11月)。pp53
  44. ^ a b c d e f g h 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp402
  45. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp307
  46. ^ 佐藤武夫 『甲府市朝日通り商店街の経営立地的研究(地域経済部会共同研究)』 東洋大学経済経営研究所研究報告 1966年版 No.3 (東洋大学経済研究所) (1970年3月31日)。pp53
  47. ^ a b 佐藤武夫 『甲府市朝日通り商店街の経営立地的研究(地域経済部会共同研究)』 東洋大学経済経営研究所研究報告 1966年版 No.3 (東洋大学経済研究所) (1970年3月31日)。pp72
  48. ^ 佐藤武夫 『甲府市朝日通り商店街の経営立地的研究(地域経済部会共同研究)』 東洋大学経済経営研究所研究報告 1966年版 No.3 (東洋大学経済研究所) (1970年3月31日)。pp73
  49. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp308
  50. ^ a b c d e f g h 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp405
  51. ^ 『山日年鑑 1964年版』 山梨日日新聞社、1964年8月25日。pp297
  52. ^ a b “開店ニュース”. 販売革新 1969年3月号 (アール・アイ・シー) (1969年3月).pp158
  53. ^ a b 『日本セルフ・サービス年鑑 1968年版』 日本セルフ・サービス協会、1967年9月15日。pp260
  54. ^ 『山梨時事年鑑 1962年 改訂版』 山梨時事新聞社、1962年7月1日。pp343
  55. ^ 増穂町誌編集委員会 『増穂町誌 上巻』 増穂町、1977年1月20日。pp1007
  56. ^ a b c d e f g h i 『全国食品スーパー名鑑 1973年版』 食品新聞社、1973年1月20日。pp404
  57. ^ “SC情報”. ショッピングセンター 1974年7月号 (日本ショッピングセンター協会) (1974年7月1日).pp62

関連項目


中込百貨店

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 00:00 UTC 版)

甲府西武」の記事における「中込百貨店」の解説

元々は、中込良が創業した地元資本呉服店である「中込呉服店」が甲府市橘町現在の甲府市丸の内)で営業行っていた。 戦前駅前通り入口東側角地の場所に2階コンクリート造のモダンな建物構えていたが、1945年昭和20年7月甲府空襲全焼その後1948年昭和23年)、株式会社「中込百貨店」に改組1951年昭和26年)に山梨県庁舎南側木造店舗建設し百貨店として本格的な営業開始した商圏内には既に岡島百貨店のほか、1954年昭和29年)に「甲府松菱」(その後山交百貨店)が開業、さらに1958年昭和33年)には荻野商店が「オギノ」としてスーパーマーケット業に転換し既存商店街とともに客の奪い合いとなった。中込百貨店はとなる百貨店をはじめ、12ものスーパーマーケット「なかごみ」など3社を運営するなど多角化進めるが、無理な経営祟りこの頃から資金繰り悪化するまた、1969年昭和44年5月には創業者中込良が病気倒れ、代わって1973年昭和48年)には中込亨が社長に就任した中込良は1974年4月死去)。 打開策として従来木造建物解体し1973年昭和48年3月総工費25億円をかけ、地上8階地下3階3階建て展望台ガラス張りエレベーター完備した新店舗「アーバンなかごみ」としてリニューアルオープン1974年昭和49年)には県外資本ダイエー進出先駆け7月には西武流通グループ(後のセゾングループ)の中核会社西友ストアー西友)と提携し15億円の融資受けた上で西友80%、中込20%出資株式会社中込西友設立アーバンなかごみの建物借りる形で運営した。しかし第1次オイルショックがとどめを刺し1975年昭和50年3月7日株式会社中込百貨店含む3社が会社更生法適用申請し経営破綻負債総額38億円。 その後中込百貨店は、運営していたスーパー全店舗を閉店させるなど段階的な事業縮小人員整理繰り返し1979年昭和54年10月2日には、株式会社中込百貨店を存続会社として3社が合併1960年昭和35年11月設立され株式会社中込百貨店不動産部の事業継承した株式会社なかごみに社名変更した。

※この「中込百貨店」の解説は、「甲府西武」の解説の一部です。
「中込百貨店」を含む「甲府西武」の記事については、「甲府西武」の概要を参照ください。

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