真田信繁との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:59 UTC 版)
貞清の妻は前述のとおり、石田三成の娘か大谷吉継の妹であり、前者ならば一族の頼明の妻と石田三成の妻が姉妹、そして一説に真田昌幸の妻・山手殿も姉妹であり、山手殿の出自が異なる場合も昌幸の娘が三成の一族の宇田頼次に嫁いでいるので、貞清は真田信繁と親戚となる。後者ならば、貞清の妻は、信繁(幸村)の正室(大谷吉継の娘)竹林院の叔母にあたる。よっていずれの場合も親類であった。 また、(秀吉直参であった)信繁は名護屋城の馬廻衆の頃、石川光元(紀伊守)を頭とする組(一番石川組)に属しており、貞清ともこの頃から顔見知りであった可能性がある。 信繁の七女・おかねは、前述のとおり、貞清の妻、または嫡男・重正の妻(貞清からは嫁)とされている。おかねの婚姻時期は、すでに大名時代の石川貞清ではなく、金融業を営み、茶人となった宗林の頃と考えられる。貞清は、大坂の陣で信繁が戦死した後、竹林院(おかねの母)を京に引き取り、一緒に暮らして援助したと伝えられる。また、後年、貞清は大檀那であった京都市右京区竜安寺塔頭大珠院に、信繁夫妻の墓と五輪塔を建てさせてその一族を供養した。
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