大名屋敷での盗み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 00:42 UTC 版)
盗みに入った場所のうち、14ヵ所が以下の大名屋敷である。田安・一橋・清水の御三卿の他、老中職に就く大名もおり、また場所は丸の内が多く、しかも本邸である上屋敷が被害にあっている。 松平甲斐守(幸橋内、大和郡山藩 15万1288石) 小笠原左京太夫(神田橋内、豊前小倉藩 15万石) 松平内蔵頭(大名小路、備前岡山藩 31万5200石) 細川越中守(大名小路、肥後熊本藩 54万石) 松平薩摩守(芝新馬場、薩摩鹿児島藩 77万800石) 藤堂和泉守(向柳原、伊勢津藩 32万3950石) 松平安芸守(桜田霞ヶ関、安芸広島藩 42万6000石余) 田沼主殿頭(神田橋内、遠江相良藩 5万7000石)老中 松平伯耆守(一橋外、丹後宮津藩 7万石) 松平讃岐守(小石川門内、讃岐高松藩 12万石) 松平周防守(大名小路、石見浜田藩 6万400石)老中 田安家 一橋家、一橋民部卿治済 清水家 大名屋敷は座敷の多さ、住居の広さに比べて人間の数が少なく、しかもそれぞれが部屋に籠もり、また詰所に宿直しているため、監視の目が行き届かない。そのため、新助は時によっては、2、3日もある座敷に潜伏していたこともあるという。その上、女性が住む奥と表の境界が厳然としており、奥向は女中ばかりで見付かって騒ぎ立てられても表から侍たちが来るのに時間がかかるので、悠々と逃げ出せる。入るのは難しいが、一旦侵入してしまえば後は楽なので、盗みに入るなら大名屋敷が一番勝手が良かった。これは最初に忍び込んだ郡山藩の藩邸で、幸橋御門を入って、お堀端からそこにある土蔵の下見を伝って構内へ入り込むと、奥庭へたどり着いたという経験から知ったことであった。それ以後も、塀や番所の屋根などを乗り越えて奥庭へ忍び込み、戸締りもされていないため鍵や戸を破壊することもなく潜入できた。 天明4年9月下旬に小倉藩小笠原家の藩邸から盗みだした印籠は、小笠原氏の先祖が豊臣秀吉から拝領したという由緒あるもので大騒ぎになったが、その価値を知らない新助は、9両3分ほどでさぶに売ってしまった。 天明4年の師走(または10月)に岡山藩の上屋敷に忍び込んだ折には、奥まで入り込み過ぎ、寝所で寝ていた岡山藩主の池田治政(松平内蔵頭)に気付かれてしまった。治政は家来衆を呼びもせず、鉄の鞭を振るいながら追い回したため、庭に逃れた新助は築山に立つ木の上へよじ登ってそこに隠れた。側衆の者が手燭を持って駆けつけたが、暗闇に紛れた新助を発見できず、治政は「悪(にく)い奴かな、一打ちにと思ったに、見失ったか」と言って邸内に戻った。新助は命からがら外へ逃げ延びたが、のち捕まった際に、この時ほど慌てたことも恐しかったこともなかったと語っている。
※この「大名屋敷での盗み」の解説は、「田舎小僧」の解説の一部です。
「大名屋敷での盗み」を含む「田舎小僧」の記事については、「田舎小僧」の概要を参照ください。
- 大名屋敷での盗みのページへのリンク