大名専制支配の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/12 05:51 UTC 版)
弘治元年(1555年)、重臣たちの政治合議組織で大名権力を傀儡化させた「畠山七人衆」を崩壊させるため、中心人物である温井総貞を義続・義綱父子らは暗殺した。この暗殺事件をきっかけに温井氏と、温井氏と親しい三宅氏が加賀一向一揆を味方につけ大規模な反乱を起こし、一時は外浦を占領された(弘治の内乱)。しかし、この内乱も永禄3年(1560年)頃までには義綱方が鎮圧した。この内乱の過程で義綱方は士気が高まり、大名専制支配を確立した。 この内乱が終息した永禄3年(1560年)から永禄9年(1566年)の時期は、末期の能登畠山家にしては安定した時期と言える。能登国内での家臣たちの戦争や内乱は起こらなかった。また、将軍家への贈答を永禄4年(1561年)に再開したり、気多社の造営を朝廷の許可を得て実行している。さらに、永禄5年(1562年)には上杉謙信に攻められた神保長職に仲介を頼まれ争いを調停し合意させるなど、外交活動が活発化している。また、同じ年には正親町天皇の勅許を奉じて能登一宮の再建にあたり、自らも朝廷や幕府を介して銭7千疋という多額の寄進を行っている。
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