豊臣大名時代の勝山城
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「勝山城 (甲斐国都留郡)」の記事における「豊臣大名時代の勝山城」の解説
天正18年(1590年)7月の小田原合戦により後北条氏が滅亡し、さらに奥州仕置により天下統一が達成されると、豊臣政権では全国的な大名配置換えを実施する。この大名配置換えにおいて徳川家康は関東へ移封となり、甲斐国には天正18年8月1日から天正19年(1591年)2月中旬まで羽柴秀勝が、天正19年2月中旬から文禄3年(1594年)1月17日まで加藤光泰が、文禄3年2月初旬から慶長5年(1600年)まで浅野長政・幸長が配置される。 羽柴・加藤・浅野三氏時代の甲斐統治では甲斐一国を国中・河内・郡内に区分して一門・家老を配置している共通性を持ち、いずれも徳川家康の領国と接する郡内は国中・河内とは別の人物を配置し、重視された地域であることが指摘される。 浅野氏時代の甲斐統治では、郡内担当者として家老の浅野氏重(良重、左衛門佐)が配置される。氏重は当主である長政・幸長との系譜関係は不明であるが、国中・河内を担当した浅野忠吉とともに一族の重鎮であったと考えられており、甲斐入国時の文禄4年に「良重」から「氏重」に改名している。氏重の郡内支配では配下に川口長重、伊藤又兵衛、大橋吉景、沖吉勝、不破高利が代官を務めている。 『甲斐国志』では勝山城の築城者を氏重とし、浅野氏時代に勝山城跡に所在していた八幡神社が現在地に移転されたとされ、縄張りが行われたという。 一方、2010年時点で氏重の築城のみならず羽柴・加藤・浅野氏時代を通じて豊臣大名の勝山城築城を示す確実な史料は確認されないことが指摘される。浅野氏入国の半年後にあたる文禄3年8月28日付の浅野氏重夫人寄進状写によれば、氏重夫人が都留郡小野村(都留市小野)の小野熊野神社に神田を寄進した際に、氏重に対して「御城様」の呼称で呼んでおり、このため浅野氏が入国した時点ですでに勝山城は築城されていたと考えられている。また、氏重は文禄3年に鳴沢村の百姓中に対して木材の徴発を命じている史料があることから、これを勝山城の修築に関するものとする説もあるが、同時期の甲府城築城に関する史料の可能性も指摘される。 従来は谷村館の詰城はさらに北方にある桂川沿いの岩殿山に築かれた岩殿城(大月市賑岡町岩殿)であると考えられていたが、現在では戦国期の本城と詰城との位置関係から、距離のある岩殿城よりも勝山城が詰城であったと考えられている。
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