豊臣国松=木下延由説
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延由の正体は、豊臣秀頼の庶子・国松だとする説がある。 木下家18代にあたる木下俊𠘑は同家に伝わる一子相伝の口伝をもとに、昭和43年に豊臣家九州逃亡譚を集めた『秀頼は薩摩で生きていた』を刊行した。相伝によれば、「秀頼公の一子・国松君は大坂城落城の際、真田大助らと共に四国路を薩摩国に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあった」とされる。俊𠘑氏は伊集院兼貞は誤伝で、伊集院は地名で、虚無僧の集落であって、人物は伊地知兼貞であったとする。徳川の治世が確固となった後はこの地も危うくなったので、親族の日出藩に身を寄せることにして、領内南端の豊後深江の浜に着船させ、日ノ出城に入ったとする。高台院の甥にあたる藩主の延俊は、八蔵という百姓のような名になっていた国松を縫殿助と改めて木下家に迎え入れ、すでに嫡男(長男と次男は早世のため三男)がいたので、縫殿助は二代俊治の弟となった。 同説では、縫殿助(延由)は慶長19年(1614年)11月9日の生まれで、同年10月27日生まれ俊治とは年子で12日違いとなる。 延俊は寛永19年(1642年)1月7日に66歳で没するが、江戸屋敷で息を引き取る前に家老の長沢市之丞に遺言を残しており、「嫡男俊治を二代藩主とすること。そして弟の縫殿助には日出領内の立石郷1万石を分封させ、その際に、羽柴姓を名乗らせて名を延由にせよ」というものだった。日出藩は3万石しかなく1万石を分封すれば大名家の格下げになるため、家老の長沢は「5千石の分封承り申した」と主張を続けて、立石郷5千石に留まることになった。 この形で初代藩主の遺言として幕府に願い出でられて、結局、三年後に立石藩5千石が正式に許可された。家老として日出藩の立場を守った長沢市之丞は、延宝元年(1673年)、延俊の死から31年も経って、主命の背いたことをわびた遺書を残して切腹死した。伝承に拠れば、延由の正体を知った長沢が「亡き主君の意志を理解し得ず君命に背いてしまった」と悔恨したためともいう。 立石郷の木下家菩提寺である長流寺には、延由のものとされる位牌が納められている。位牌には菱に十文字の家紋が印され、俗名には「木下縫殿助豊臣延由」とある。同寺の過去帳では、延由の享年45。 前川和彦は、立石羽柴家が『豊臣姓』を名乗ることは本来はありえないことで、延由たる国松が豊臣秀吉の嫡孫たる誇りを持っていたに違いなく、そして位牌は幕府の目を警戒して長流寺の奥深くに秘蔵されてきたのではないかと述べている。高橋敏は、豊臣姓を名乗ることは本藩木下家にも許されていなかったとし、幕府も隠密の調べによって、延由が実は国松であると知っていながら、わざと素知らぬ振りをしていたのではないかと述べている。
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