豊臣国松=木下延由説とは? わかりやすく解説

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豊臣国松=木下延由説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:06 UTC 版)

木下延由」の記事における「豊臣国松=木下延由説」の解説

延由の正体は、豊臣秀頼庶子国松だとする説がある。 木下家18代にあたる木下俊𠘑は同家に伝わる一子相伝口伝をもとに、昭和43年豊臣家九州逃亡譚を集めた『秀頼は薩摩生きていた』を刊行した相伝によれば、「秀頼公の一子国松君は大坂城落城の際、真田大助と共に四国路を薩摩国逃れ伊集院兼貞の庇護のもとにあったとされる。俊𠘑氏は伊集院兼貞は誤伝で、伊集院地名で、虚無僧集落であって人物伊地知兼貞であったとする。徳川治世確固となった後はこの地も危うくなったので、親族日出藩身を寄せることにして、領内南端豊後深江の浜に着船させ、日ノ出城に入ったとする。高台院の甥にあたる藩主の延俊は、八蔵という百姓のようなになっていた国松縫殿助と改め木下家迎え入れ、すでに嫡男長男次男早世のため三男)がいたので、縫殿助は二代俊治の弟となった同説では、縫殿助(延由)は慶長19年1614年11月9日生まれで、同年10月27日生まれ俊治とは年子12日違いとなる。 延俊は寛永19年1642年1月7日66歳で没するが、江戸屋敷で息を引き取る前に家老長沢市之丞に遺言残しており、「嫡男俊治を二代藩主とすること。そして弟の縫殿助には日出領内立石1万石を分封させ、その際に、羽柴姓を名乗らせて名を延由にせよ」というものだった日出藩は3万石しかなく1万石を分封すれば大名家格下げになるため、家老長沢は「5千石分封承り申した」と主張続けて立石郷5千石留まることになった。 この形で初代藩主遺言として幕府願い出でられて、結局三年後に立石藩5千石正式に許可された。家老として日出藩立場守った長沢市之丞は、延宝元年1673年)、延俊の死から31年経って主命背いたことをわびた遺書残して切腹死した伝承拠れば、延由の正体知った長沢が「亡き主君意志理解し得ず君命背いてしまった」と悔恨したためともいう。 立石郷の木下家菩提寺である長流寺には、延由のものとされる位牌納められている。位牌には十文字家紋印され俗名には「木下縫殿豊臣延由」とある。同寺の過去帳では、延由の享年45前川和彦は、立石羽柴家が『豊臣姓』を名乗ることは本来はありえないことで、延由たる国松豊臣秀吉嫡孫たる誇り持っていたに違いなく、そして位牌幕府の目を警戒して長流寺奥深く秘蔵されてきたのではないか述べている。高橋敏は、豊臣姓を名乗ることは本藩木下家にも許されていなかったとし、幕府隠密調べによって、延由が実は国松であると知っていながら、わざと素知らぬ振りをしていたのではないか述べている。

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