近世の稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:35 UTC 版)
江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは利根川や信濃川など手付かずだった大河流域の湿地帯や氾濫原で新田の開墾を推進し、傾斜地にも棚田を設けて米の増産を図った。幕府も見沼代用水や深良用水などの農業用用水路も盛んに設けたり、諸国山川掟を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した。農業知識の普及も進み、宮崎安貞による日本最古の体系的農書である農業全書や大蔵永常の農具便利論などが出版されている。地方農村では二宮尊徳や大原幽学、渡部斧松などの農政学者が活躍した。農具も発達し、備中鍬や穀物の選別を行う千石通し、脱穀の千歯扱などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、慶安の御触書でも雪隠を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、やませの影響が強い東北地方の太平洋側を中心に飢饉も多発しており、江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。
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