近世の西俣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:25 UTC 版)
「西俣町 (鹿児島市)」の記事における「近世の西俣」の解説
江戸時代には薩摩国日置郡郡山郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では746石余、「郡村高辻帳」には746石余、「三州御治世要覧」には759石余、「旧高旧領取調帳」では777石余、「郡山郷土史」では明治時代初期には777石余であった。豊臣秀吉の九州平定後の文禄4年(1595年)に西俣のうち136石余が禰寝氏の禰寝七郎に与えられた。 西俣村に置かれた薩摩藩の門割制度における門は20を超えていたとされる。明和6年(1769年)には西俣村において村検地が実施された。 明治時代になり、明治5年に大区小区制が公布され、これに伴い郡山郷の区域が第21大区となり西俣村は第6小区となった。1878年(明治11年)には西俣に小学校が設置されていたが、1885年(明治18年)に郡山小学(現在の鹿児島市立郡山小学校)に統合された。
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