近世の貿易と貨幣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
近世の日本は貴金属の輸出国だった。16世紀半ばからポルトガルや中国との間で南蛮貿易が行われ、豊臣秀吉が始めたとされる朱印船貿易は江戸幕府も継続した。取引相手はポルトガル、ベトナムの安南、スペイン領マニラ、タイのアユタヤ王朝やパタニ王国などの諸国だった。江戸幕府が鎖国令を出したのちは、ポルトガルに代わりオランダ東インド会社が日本と取り引きを行った。鎖国時代に正式な外交関係にあったのは琉球と朝鮮王朝であり、外交儀礼にも銀が贈られた。 南蛮貿易 戦国・織豊時代の日本は銀を輸出して、生糸、絹織物、そして火薬原料の硝石を輸入した。日本商人はポルトガル商人と契約して中国商品を購入し、ポルトガル商人は中国からの信用貸付を行った。長崎では投銀(なげかね)と呼ばれる投資が行われ、投銀は言伝銀と海上銀という契約に分かれていた。言伝銀は商品を購入するために銀を委託する契約であり、海上銀は海難時に借主が有限責任を負う高利の契約だった。大名や幕臣は海上銀を行い、幕府は幕臣の海上銀を禁じて、のちに全ての言伝銀と海上銀を禁じた。 長崎貿易 オランダ東インド会社はポルトガルの手法を参考にして中国産の生糸などを日本に売り、日本は金や銀で支払いをした。1640年(寛永17年)には小判2万1千枚と大判300枚が輸出されるなど金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に送った。輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐため、幕府は貿易用の長崎貿易銭として元豊通宝などを発行した。1667年(寛文年)には小判4万枚以上が輸出され、オランダの単位に換算すると106万グルデン以上となり、オランダ本国から東インド会社への送金34万グルデンを上回った。銀の輸出量は、17世紀前半当時の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半のバタヴィアでは日本の小判が流通して、獅子の刻印を打ったものが9から10ライクスダアルダーとして用いられた。金銀の流出は長年の問題となり、幕府は定高貿易法で貿易の上限設定をしたり改鋳を行なった。改鋳は取引国のオランダや中国から反発を受ける原因となった。 日朝貿易 朝鮮半島においては李氏朝鮮と対馬藩が貿易をしており、日本は中国の生糸や朝鮮の高麗人参を慶長銀で購入していた。改鋳した銀貨を用いるようになるが、元文の改鋳で含有率が低くなった銀貨は、朝鮮側が受け取りを拒否するようになる。薬用として貴重であり消費が増えていた高麗人参の輸出が中止され、対馬藩は幕府に対策を訴える。幕府は高麗人参専用の銀貨として人参代往古銀を発行した。しかし、貿易代金の9割増歩引き換えで対馬藩の財政を圧迫したため、輸出の中心は銀から銅へと移っていった。日本は外交使節である朝鮮通信使にも銀を贈ったが、朝鮮側は銀を自国内に持ち込まないようにして、朝鮮人被虜の送還費用や外交窓口である東萊府の資金とした。その理由として、政治的儀礼で与えられた銀には朝貢に対する回賜と解釈したとされる。 琉球貿易 琉球は薩摩藩や明との貿易を行った。明との朝貢貿易では銀(渡唐銀)を輸出して生糸を輸入して、薩摩藩には明からの生糸の他に琉球産の砂糖や鬱金を輸出して鹿児島琉球館から銀を輸入した。薩摩藩との貿易では砂糖が主力商品となった。元禄の改鋳で発行された銀は銀含有率が低く、琉球は貿易で受け取りがたいと薩摩藩に交渉した。幕府は対馬藩と同じく慶長銀と同じ銀含有率に吹き替えを許可され、京都銀座が吹き替えを担当した。幕府が銀の輸出をさらに規制するために銅に切り替え、琉球は大坂銅座から入手して明に輸出した。外交儀礼として琉球からの使節に対して幕府から銀が贈られ、主な贈答は中山王へのものとなった。 蝦夷地 北海道は豊富な金産地であり、17世前半には道南の和人地とアイヌが住む蝦夷地に分けられていた。金の採掘や砂金の採取が盛んになると、当時のアイヌ総人口2万4千人を超える3万人以上の和人が集まった。松前藩が定めた商場知行制はアイヌの不満を呼び、金産地だった日高ではシャクシャインの戦いが起きた。 また松前藩は中継ぎを担う樺太アイヌや宗谷アイヌを仲介し、当時蝦夷地(樺太や宗谷)に来航し山丹人とも呼ばれたニヴフやウリチと山丹貿易を行った。山丹側の商品は中国の清に朝貢をして得た絹織物や大陸の産物で、アイヌの商品はクロテンをはじめとする毛皮や会所(運上屋)で行われるオムシャなどで幕府から得た鉄製品などだった。取り引きにおいて日本や清の金属貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された。松前藩はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手しており、清の絹織物は蝦夷錦と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした。 銅の輸出 金銀の次は銅の輸出が増え、17世紀から18世紀初頭にかけての日本は当時世界一の年間6000トンを産出した。輸出された銅は海外の貨幣にも用いられ、東インド会社時代のセイロンや、ナポレオン戦争時代のジャワでは、日本の銅地金を切断して刻印を打った貨幣が現地用に急造されていた。銅の減少は国内に影響を与え、元文時代になると鉄で作られた寛永銭が目立つようになった。長崎貿易銭は東南アジアにも運ばれてベトナムやスリランカでも出土している。日本銭のほかに、輸入されたのちに使われなくなった中国銭も輸出された。
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