近世の羊羹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 01:14 UTC 版)
江戸時代初頭に発行された『日葡辞書』には、「羹(カン)」「羊羹」「砂糖羊羹」が採録されており、「羹」は「豆や小麦と粗糖(黒砂糖)または砂糖とで作る、日本の甘い菓子の一種」、「羊羹」は「豆に粗糖をまぜて、こねたもので作った食物」、「砂糖羊羹」は「豆と砂糖とで作る、甘い板菓子(羊羹)の一種」と記載されている。このことから、記載されている羊羹と砂糖羊羹はいずれも小麦粉を使って蒸した菓子であり、羊羹は黒砂糖、砂糖羊羹は上等な白砂糖を使っていたと推測される。 江戸時代には、蒸した生地を臼でついたりこねたりして成形する製法と、枠(箱)に生地を流し入れて蒸し固める製法の2種類の製法があった。虎屋文庫『ようかん』では、室町中期の武家故実書『三議一統大双紙』に描かれている州浜形のものが羊羹である可能性があるとして、前者の蒸した生地を成形する製法が古くからあるもので、後者の蒸すだけの製法は簡易な製法として後に考案されたものではないかと考察している。現在の羊羹のイメージに近い直方体の羊羹が描かれた最古の史料は1688年の『庭訓往来図讃』である。 ここまでの羊羹は今で言う蒸し羊羹であったが、18世紀の後半に寒天を用いた煉羊羹が登場する。寛政(1789年-1801年)のはじめに江戸本町の「紅粉や志津磨(紅谷志津磨)」という店が考案したという説や、喜太郎という人物が日本橋で売り出したとする説が有名だが、前田治脩の『大梁公日記』の1773年10月12日の条に「ねりやうかん」を食べたという記載があり、誕生はさらに遡る。 食感がよく日持ちもする煉羊羹は江戸で人気を博し、数十年のうちに地方の菓子屋へも製法が広まった。1841年の菓子製法書『菓子話船橋』や1849年の『諸国名物一覧』の記載から、1800年代半ばには蒸し羊羹にかわって煉羊羹が主流になり始めていたと考えられる。素材や製法のバリエーションも増え、ユズやミカンやゴマを素材にしたものなどが登場した。
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