近世の黒川金山
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17世紀初頭には黒川金山は再び人口が増加する。慶長・元和年間には黒川金山を含め甲斐内で幕府が直営する鉱山の金産出量は100貫前後に上り、佐渡金山の金産出量と匹敵する。寛文頃にかけて、金山衆は信濃国川上村の梓山・川端下金山、武蔵国秩父の股野沢金山、出羽国延沢銀山など他国鉱山の採掘許可を願い出て鉱業を続けていくものもり、甲斐国内において村落に屋敷地を確保して土着し、土豪として生業や士分を得るものもいた。 中でも田辺佐左衛門は天正17年(1589年)に行われた甲州の検地役人を務め、子孫は田辺庄右衛門が大久保長安の用人を務め、田辺市郎左衛門は佐渡金山奉行の伊丹康勝の知行地代官を務めた。元禄年間には黒川金山は閉山したと推測されている。 黒川金山の金山衆の出自と伝わる永田茂衛門は寛永17年(1640年)に子の勘衛門とともに常陸国の水戸藩に仕えた。正保4年(1647年)から明暦2年(1656年)まで常陸の久慈川・那珂川から取水した辰ノ口堰・岩崎堰・小場堰の開削に携わった。永田家の子孫は富岡(茨城県常陸大宮市)と薬谷(同市)において水積役を務めている。
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