一揆首謀者の処罰とその後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/30 08:16 UTC 版)
「元文一揆」の記事における「一揆首謀者の処罰とその後の影響」の解説
2月27日、大半の一揆参加者が帰宅したその日から藩は首謀者の捜索と逮捕を開始した。その日のうちに鳥取城下の長屋に潜伏していた松田勘右衛門兄弟らを逮捕、2月から3月にかけて数十名を逮捕した。 しかし捜査が進むにつれ、武士の間にも一揆首謀者との接触が判明した者が現れ始めたために、処罰は大規模な一揆にもかかわらず最小限に止められた。武士の中では、一揆に同情的であった上野忠親、一揆勢から要職登用の願いがあった福住弥一兵衛、首謀者が隠れていた長屋の持ち主であった永原弥左衛門らが閉門や暇を出されている(これには一揆首謀者の松田勘右衛門が以前より出仕を希望して、役所などに出入りを繰り返し、役人などと接触していたからとされる)。 取り調べ開始から1年以上経った元文5年(1740年)11月21日、一揆の首謀者・松田勘右衛門らの処刑が執行された。それと同時に処罰された関係者40名あまりが追放刑に処せられた。 また、一揆のもたらした混乱と影響は大きく、完全な沈静化には時間がかかった。一揆が終結して1ヶ月ほど経った3月下旬には藩から出された通達が一揆勢の要求とは異なるとして伯耆国西部で打ち壊しが起こったほか、伯耆では新たな一揆を行うとする噂が立つなど不穏な情勢が続いた。これら一揆の余波は藩側が沈静化させようと努力した結果、4月下旬になってようやく完全に静まった。
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