一摂家の豊臣家とは? わかりやすく解説

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一摂家の豊臣家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:25 UTC 版)

豊臣秀頼」の記事における「一摂家の豊臣家」の解説

その後も、摂関家家格沿った順調な位階官職昇進遂げた毎年年頭には公家大坂城大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権行使するなど、朝廷からは秀吉生前同様の礼遇受けていた。武家世界においても、秀頼家臣は陪臣ではなく徳川将軍家直参同等に書類記載されるなど、秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持していた。この時期日本二つ政権併存した「二重公儀体制」と評価する笠谷和比古の説もあるが、これを批判否定疑問視する説は多い。これにつき、慶長11年1606年)の江戸城普請に際して、秀頼の家臣大坂衆)である水原吉勝伏屋貞元両名普請奉行として参加しており、この両名徳川方普請奉行五名とが連名毛利家に対して石船供出命じた連署状の存在明らかにされている。 慶長10年1605年4月、秀頼が右大臣昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見希望するが、淀殿反対実現しなかった。これに対し家康は、六男の松平忠輝大坂城派遣して秀頼に面会させている。 慶長12年1607年1月11日、秀頼は右大臣辞している。 慶長16年1611年3月家康計らい後陽成天皇後水尾天皇譲位すると、ついに秀頼は「千姫祖父挨拶する」という名目で、加藤清正浅野幸長守られつつ上洛し、京都二条城家康会見した。この会見意義については、秀頼の家康への臣従意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解分かれている。 朝廷では誕生以来、秀頼を摂家豊臣家後継者として見なしていた。これは関ヶ原後に家康権力移って関白なり得る存在として朝廷内での位置づけ変わらず慶長末年に秀頼が国家鎮護のために方広寺大仏(京の大仏)を再建した際にも供養会に朝儀挙行し、文書調えるなど、朝廷は秀頼のために機能した豊臣家幕府からは五摂家同じく公家として扱われた。

※この「一摂家の豊臣家」の解説は、「豊臣秀頼」の解説の一部です。
「一摂家の豊臣家」を含む「豊臣秀頼」の記事については、「豊臣秀頼」の概要を参照ください。

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