一摂家の豊臣家
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その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進を遂げた。毎年の年頭には公家が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。武家の世界においても、秀頼家臣は陪臣ではなく、徳川将軍家直参と同等に書類に記載されるなど、秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持していた。この時期を日本に二つの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する笠谷和比古の説もあるが、これを批判・否定・疑問視する説は多い。これにつき、慶長11年(1606年)の江戸城普請に際して、秀頼の家臣(大坂衆)である水原吉勝・伏屋貞元の両名が普請奉行として参加しており、この両名と徳川方普請奉行五名とが連名で毛利家に対して石船の供出を命じた連署状の存在が明らかにされている。 慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しなかった。これに対し家康は、六男の松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。 慶長12年(1607年)1月11日、秀頼は右大臣を辞している。 慶長16年(1611年)3月、家康の計らいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正や浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康と会見した。この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている。 朝廷では誕生以来、秀頼を摂家豊臣家の後継者として見なしていた。これは関ヶ原後に家康に権力が移っても関白になり得る存在として朝廷内での位置づけは変わらず、慶長末年に秀頼が国家鎮護のために方広寺大仏(京の大仏)を再建した際にも供養会に朝儀を挙行し、文書を調えるなど、朝廷は秀頼のために機能した。 豊臣家は幕府からは五摂家と同じく公家として扱われた。
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