一揆鎮圧後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/18 07:41 UTC 版)
松平氏は親氏・泰親の2代は有徳人として京都・近江での活動や在地・三河国内では土地の買得などによる、非軍事的な勢力の拡大を基礎に幕府政所執事・伊勢氏との被官関係を結び、額田郡内における領主権は主筋の伊勢氏を背景に獲得したものであったが、伊勢氏の命を受けたこの一揆討伐では本格的な軍事行動によって鎮圧に成功し、松平氏は在地三河での領主的存在感を示すことが出来た。またその論功行賞として松平氏としては初めて、幕府から深溝をはじめとする数カ所の所領を与えられた。これらは後に松平氏が三河国において戦国大名化するための足がかりとなったと言える。 戸田氏は従来の所領である西三河の上野荘や尾張知多郡の河和(愛知県知多郡美浜町河和)・富貴(知多郡武豊町富貴)に加えて、東三河の渥美郡田原(田原市)付近に恩賞の地を得た事が、その後、更なる渥美郡南部への勢力拡大も相まって三河湾を挟む大きな勢力になったとされる。 今川氏は永享の乱・結城合戦とも6代将軍足利義教側として参戦しており、『今川記』にいう「牢人」の元主筋である東条吉良氏とこの当時は対立する立場であった。 また、三河は当時、将軍・義教の粛正によって守護職権を奪われた一色氏の残党勢力と、後任の守護職である細川氏の勢力が軍事対立を続けており、一色氏被官であったとされる東三河の牧野氏や、元三河守護仁木義長の元守護代・西郷氏の一族とされるこの西郷氏も鎮圧には消極的であったと考えられる。 一方、松平氏も当主信光の正室が一色氏一族の出身であった指摘や、伊勢氏の被官であることで松平氏が守護細川氏の守護職権の外側にあったことも、当初は鎮圧に消極的であった原因と推定されている。しかし、この一揆鎮圧において、松平氏が伊勢氏の命に服してにわかに立場を三河守護・細川成之側に転じて勝利したことで、恩賞に深溝・形原・竹谷・五井・長澤等の新所領を獲得に成功した。これにより、勢力を西三河のみならず東三河宝飯郡の一部にまで拡大し、各々に松平庶家を分出した。
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