一揆首謀者の処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:32 UTC 版)
翌慶長14年3月28日(1609年5月2日)、代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を翌日に出頭させる旨の書状が届く。一同は出頭後直ちに捕縛、引地峠の刑場に連行され斬首、物河土手に梟首された。北野孫兵衛のものとされる首塚は現在も成君寺近くに残る。 なお、僧休伝が追善供養にあたり、寛文4年(1664年)浄土門の寺一宇建立を許されたとされる。これが建立寺で、現在も十一庄屋合同位牌が安置されている。
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