見分役人
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天保12年11月(1841年12月)、京都町奉行は突然草津川・野洲川・仁保川筋及び湖水辺の蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡375ヶ村の庄屋を呼び出し、『各村先の空地、川筋・湖辺の新開地の見分を行うので用意して沙汰を待て。今般の見分は公儀(幕府)が行い公役(幕府役人)が直接行うので愁訴・嘆願がましいことは許さない。』との口達を行い、各庄屋より請書を徴した。同年12月(1842年1月)には、水野忠邦自ら幕府の事業として湖水縁りや諸川の新開場見分のため幕府勘定方市野茂三郎を派遣する旨の通達を出した。 天保13年1月11日(1842年2月20日)、老中水野忠邦から与えられた見分親書を持ち幕府勘定方市野茂三郎が京都奉行所与力、大津・信楽(現甲賀市信楽町多羅尾)代官所役人の出迎えを得て近江水口宿(現甲賀市水口町)に到着した。京都にて打ち合わせを行った後、市野茂三郎以下、普請役大坪本左衛門・藤井鉄五郎、京都町奉行所与力2名、大津・信楽代官所手代より各3名が検地役となり、絵師・医師・下働きの者を含め総勢40余名にて、野洲郡野村(現近江八幡市)より江頭村(現同市)・小田村の仁保川筋の検地に取り掛かった。 この時、検地に先立ち回村予定の各村に『触書』が出された。内容は『今回の新開田畑の見分は国益を増進させる目的である。』『新田は余所者(江戸町人大久保今助等)に背負わせず村請にすることから村にも益がある。』『新開場があると聞いているので見聞する。』『近江は一旦請書を出しても彼是申し立てる悪弊があるが、今回は認めない。』であった。『触書』と共に、京都町奉行所は仁保川筋の蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡各村の庄屋を呼び出し、『近江国では何かと意義を唱え、騒ぎ立てる悪弊があるが、今回は絶対させない』との一項が入った『通達に違約しない』旨の請書を提出させていた。 細則も定められ『見分役人の回村前夜までに、その宿泊所に村役人は新開場所の絵図面・村絵図・高反別明細帳・検地帳を提出すること』『見分役人の接待には無駄を省き、食事は一汁一菜にし馳走しないこと。仮に酒肴、菓子、心ざしを出しても就き返す。もし下役の者が私欲がましいことをしたら申し出ること。休み場所に気をつかうな』等と定められていた。
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