江戸の白洲
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江戸送り11名の内3名が途上死去したため、残る8名が3月20日(4月19日)頃江戸小伝馬町の百姓牢に入牢した。月番奉行である北町奉行所で8名は取調べ尋問を受けた。当時有罪判決を下すためには被疑者の自白がなければならなかった。このため拷問による自白の強要が当たり前の如く行われていた。厳しい拷問により、入牢者8名の内7名が僅か1月余りの内に獄死した。 北町奉行阿部正蔵が土川平兵衛を担当し、『存命であれば獄門に行うべき也』との判決を死後受けた。存命時取調べにおいて平兵衛は幕府から派遣された見分役人市野茂三郎の検地に対する非違行為を訴えた。それは『第一に、実測もせずに空地の面積を算出し、その生産額を割り出して村へ売りつけた。第二に、それを拒否すると長逗留をして諸雑費を貪った。第三に、11尺6寸の間竿に、12尺2分の目盛をつけて2間竿と称し、本田まで測量し検出した余分地を空地として年貢上納地とした。第四に、検地の見舞金の名目で金品贈与を強要した。第五に、旗本や小藩に対しては過酷な検地を行い賄賂を取るが、尾張・仙台・彦根藩領へは検地の足も踏み入れず、公卿領内を通行するにおいてはわざわざ京まで使いを出すなど、大藩や公卿には低姿勢であった。』『第六に、新開場見分の請書は提出したが、本田見分の請書は提出していない。これら六つの事項はいずれも幕府の『検地掟』に違背した行為であり、市野茂三郎は公役と言う偽名を負った大盗賊に他ならず、その天下の大盗賊を追い払ったまでで、決して一揆徒党して幕府に敵対したわけではない』と理路整然と主張した。 他の者達も同様の主張を行い、市野の不正行為を実証を挙げて平兵衛の主張を補足し裏付けた。 江戸送りとなった義民 獄囚籠順罪名身分姓名年齢(数え)出身没年没地罪科領主名11番 発頭人 庄屋 土川平兵衛 42歳 三上村 天保14年4月25日 江戸小伝馬町 百姓牢 獄門 三上藩遠藤家 10番 徒党頭 庄屋 田島治兵衛 60歳 市原村 天保14年 江戸小伝馬町 百姓牢 不詳 旗本松平家 9番 徒党頭 庄屋 藤田宗兵衛 63歳 宇田村 天保14年3月5日 近江国石部宿(護送途中) 死罪 水口藩加藤家 8番 徒党頭 庄屋 黄瀬平治 46歳 杣中村 天保14年 江戸小伝馬町 百姓牢 不詳 水口藩加藤家 7番 徒党頭 庄屋 中藪喜兵衛 60歳 松尾村 天保14年 江戸小伝馬町 百姓牢 遠島 水口藩加藤家 6番 徒党頭 大庄屋 藤谷弥八 51歳 岩根村 天保14年4月25日 江戸小伝馬町 百姓牢 重追放 水口藩加藤家 5番 携りの者 庄屋 田中安右衛門 50歳 深川村 天保14年3月7日 桑名(護送途中) 死罪 水口藩加藤家 4番 携りの者 百姓(元庄屋) 山中庄五郎 41歳 氏川原村 天保14年3月12日 藤枝(護送途中) 重追放 水口藩加藤家 3番 乱妨頭 百姓 田島九兵衛 36歳 上野村 天保14年 江戸小伝馬町 百姓牢 獄門 旗本水野家 2番 立交りの者 百姓 杉本惣太郎 33歳 油日村 天保14年 江戸(佃島流刑地) 遠島 旗本酒井家 1番 十万日日延書付持ち 百姓 宮島文五郎 49歳 針村 天保14年 江戸小伝馬町 百姓牢 死罪 淀藩稲葉家
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