江戸の陰富とは? わかりやすく解説

江戸の陰富

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 04:38 UTC 版)

富籤」の記事における「江戸の陰富」の解説

江戸において富札初期には一枚一分一時期二分現在の価値換算して約33000円)となり、文化・文政期でも二朱とかなり高額であったので、一般庶民一枚富くじ数名で買う「割り札」をした。もっと手軽に庶民手を出したのが陰富で勝手に個人富札作り一文程度売りさばいた。公式の番号発表になると瓦版にして翌日配り同じ番号のものに八倍の八文にして返した。当然非合法であり当局知れれば処罰されので、当選番号を配るときは、「富くじの当たり番号だよ」と触れ回ることは出来なかったのでたんなる瓦版売りよそおいお話だよ」「お話だよ」と触れ歩いた。これが大人気最初長屋職人お慰みであったが後には武士階級にも広がり御三家のひとつの水戸家でも陰富の勧進元となった。それを種に茶坊主河内山宗春強請りをしたという。なお、この強請り脚色した河竹黙阿弥1881年(明治14年)3月新富座書き下ろした天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)」(河内山)で、初演時には全七幕の通し狂言のうち五幕目第二場比企屋敷の場」第三場「同奥座敷の場」で、旗本比企左衛門が闇興行している陰富の情景再現された。これは、先にやはり同屋敷開かれた台付といういかさま賭博二百騙り取られ蔵前鳥屋伊勢屋の手代・半七頼まれ、悪御家人直侍こと片岡直次郎が、陰富と賭博ネタに東左衛門強請って二百両を取り返すという筋である。この場は1926年(大正15年)11月帝劇において四幕目比企屋敷陰富の場」として現在までただ一度だけ再演されたが、再演当時水谷幻花劇評(「演芸画報掲載)には、本来ならこの場は丁半賭場あるべきだが、初演時、舞台賭場の場は禁物であるので、陰富の場に変えられたこと、また、大正末年当時作者出演者ほか関係者全員が陰富のことはほとんど何も知らないため、①函も振らずにいきなり錐でを突くのはおかしい ②陰富でも、を突くのは子供限ったのに、芝居ではいい大人が、しかも本諸手拝み突きにすべきところを、「片手で錐の棒を函の中に入れて掻廻してゐるのが、どうやら溝の中へ落した財布を捜してゐる様」で変だと、幕末当時記憶している数少ない年配の御見物が「ブツブツ仰しやつた」とあり、悪所を含む江戸世態風俗風化を嘆く論評加えている。

※この「江戸の陰富」の解説は、「富籤」の解説の一部です。
「江戸の陰富」を含む「富籤」の記事については、「富籤」の概要を参照ください。

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