江戸の陰富
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江戸において富札は初期には一枚一分。一時期は二分(現在の価値に換算して約33000円)となり、文化・文政期でも二朱とかなり高額であったので、一般庶民は一枚の富くじを数名で買う「割り札」をした。もっと手軽に庶民が手を出したのが陰富で勝手に個人で富札を作り一文程度で売りさばいた。公式の番号が発表になると瓦版にして翌日配り同じ番号のものに八倍の八文にして返した。当然非合法であり当局に知れれば処罰されので、当選番号を配るときは、「富くじの当たり番号だよ」と触れ回ることは出来なかったのでたんなる瓦版売りをよそおい「お話だよ」「お話だよ」と触れ歩いた。これが大人気で最初は長屋の職人のお慰みであったが後には武士階級にも広がり、御三家のひとつの水戸家でも陰富の勧進元となった。それを種に茶坊主の河内山宗春が強請りをしたという。なお、この強請りを脚色した河竹黙阿弥が1881年(明治14年)3月、新富座に書き下ろした「天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)」(河内山)で、初演時には全七幕の通し狂言のうち五幕目第二場「比企屋敷の場」第三場「同奥座敷の場」で、旗本・比企東左衛門が闇興行している陰富の情景が再現された。これは、先にやはり同屋敷で開かれた台付といういかさま賭博で二百両騙り取られた蔵前の鳥屋、伊勢屋の手代・半七に頼まれ、悪御家人直侍こと片岡直次郎が、陰富と賭博をネタに東左衛門を強請って二百両を取り返すという筋である。この場は1926年(大正15年)11月、帝劇において四幕目「比企屋敷陰富の場」として現在までただ一度だけ再演されたが、再演当時の水谷幻花の劇評(「演芸画報」掲載)には、本来ならこの場は丁半の賭場であるべきだが、初演時、舞台に賭場の場は禁物であるので、陰富の場に変えられたこと、また、大正末年の当時は作者、出演者ほか関係者全員が陰富のことはほとんど何も知らないため、①函も振らずにいきなり錐で札を突くのはおかしい ②陰富でも、札を突くのは子供に限ったのに、芝居ではいい大人が、しかも本来諸手で拝み突きにすべきところを、「片手で錐の棒を函の中に入れて掻廻してゐるのが、どうやら溝の中へ落した財布を捜してゐる様」で変だと、幕末当時を記憶している数少ない年配の御見物が「ブツブツ仰しやつた」とあり、悪所を含む江戸の世態風俗の風化を嘆く論評を加えている。
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