江戸を中心とした五街道の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:38 UTC 版)
「南関東」の記事における「江戸を中心とした五街道の時代」の解説
「直線的」な縦深防御の都市配列から、「放射状」の都市配列へ 徳川幕府は五街道を整備し、関東地方には、江戸を中心とした放射状の道路網が整備された。南関東と畿内との間には、陸路では東海道と中山道(含甲州街道)が、海路では太平洋経由の航路が整備された。一方、陸奥との間には、陸路では日光街道(奥州街道)や水戸街道(明治以後の陸前浜街道)が、海路では江戸湾 - 利根川 - 荒川の流通ルートが確立した。 更に、参勤交代によって江戸が情報の集散地として、大名たちが江戸の藩邸に地方の富を持ち込むようになると、日本の富が江戸に集中する。そして、律令時代以後の日本において、畿内以外で初めて、畿内を超える日本の中心地となった。また、徳川幕府によって、印旛沼の干拓や武蔵野台地の新田開発も実施され、「南関東」または「関東」という「面」の広がりを持つようになった。 江戸時代を通じ、参勤交代の隊列に入った地方の下級武士が江戸で生活し、また、土地を相続できない農家の次男以下が、養子縁組や丁稚奉公で江戸に出てきた。更には東北地方などで飢饉が起きる度に、江戸には農業を放棄した無宿人が大量に流入するようになる。このため、特に1800年以後の江戸の人口の多くは、無産階級で形成された。そして、それまでの日本の貴族・武家文化のような富裕層・支配階級の文化から、無産階級の庶民文化・大衆文化が江戸で花開き、現代に受け継がれている。
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