律令時代以後とは? わかりやすく解説

律令時代以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 22:29 UTC 版)

東三河」の記事における「律令時代以後」の解説

律令時代になると、穂国三河国合併させられ合併した際の令制国名は「三河国となった。この三河国の国府一宮(砥鹿神社)、総社国分寺および国分尼寺のすべては、旧穂国東三河現在の豊川市)にできた。 7世紀末葉古代国家土地制度である条里制施行され口分田が斑給された。豊川市国府町から八幡町白鳥町小田渕町為当町御津町などの音羽川下流沖積地広がる条里制のあったことが確認されている。為当地区では圃場整備事業に伴い埋没条理確認目的にした発掘が行われ、坪の境界水路畦畔散在し弥生・古墳時代遺跡確認され前代からの連続した水田耕作が行われたことも確かめられた。さらに、地層遺物詳細な検討から条里制施行平安時代中期を下ることも推定された。また、東三河には、豊橋市蒲郡市田原市等にも条理痕跡認められている。 東三河現存する寺院では、普門寺 (豊橋市)赤岩寺財賀寺東観音寺奈良時代行基による開創伝え鳳来寺大宝2年、利修仙人による創建伝えるが、いずれも伝承の域を出ない。これらの寺院伝来した仏像考古資料などからは、概ね平安後期鎌倉時代にかけて天台宗真言宗影響のもと、山寺として創建或いは中興され、山内多数坊や院を含む伽藍展開した場合多く、この地域地形的特徴反映したものとみられる。なお、鎌倉初期三河守安達盛長造営したとされる三河七御堂」には、金蓮寺丹野御堂(廃寺)、陀羅尼財賀寺観音堂赤岩山法言弥陀堂(現在の赤岩寺)、船形山普門寺観音堂龍田山長泉寺鳳来寺弥陀堂挙げられ金蓮寺(西尾市)以外は東三河所在する承久の乱の後、鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏三河守護となり、矢作川流域拠点として西三河勢力拡大したその後長く三河足利氏一族重要な基盤となり、足利尊氏室町幕府を築くにあたって京都鎌倉中間地点に当たるこの地域掌握していたことは重要な意義持った一方中世には国衙活動は殆ど見られなくなり政治の中心東三河から西三河へと次第移っていった。

※この「律令時代以後」の解説は、「東三河」の解説の一部です。
「律令時代以後」を含む「東三河」の記事については、「東三河」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「律令時代以後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「律令時代以後」の関連用語

律令時代以後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



律令時代以後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの東三河 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS