大津での取調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
土川平兵衛 平兵衛は早々に捕縛されたが一切口を結び、大津移送後関源之進による取調べにおいて『拷問の結果の生死は貴公に預ける。が、刑囚として私の体を束縛することが出来るが、精神を縛ることは出来ない。獄舎にて悶死しても、私の魂魄は江戸の白洲で見分の不正、収賄、非道を述べるであろう。』と語ったことが伝えられ、大津においても一切口を開かなかった。天保14年3月4日(1843年4月3日)、平兵衛以下11名は唐丸籠に乗せられ江戸に送られることになり、石部宿において家族・近親者に加え近郷近在の人が集まり最後の面会を哀願したが、関源之進に「ならぬ」と一喝された。関は「そうだ。見せしめに囚人たちを見せてやれ」と思い直し、対面を許した。11丁の唐丸籠に駆け寄った人々は駕籠の中を覗き込んで驚愕した。囚人たちは半年間一度も入浴を許されず、過酷な拷問で肉は裂け骨は砕け、辛うじて生きているだけで顔の相好もすっかり変わり果てていたため、妻子も誰が自分の夫で父親なのか判別もできないほどだった。囚人たちの方でかすかな声を出して自分の妻子の名を呼んだ時、初めてそれと分かり、駕籠にすがりついて泣き伏した。『人のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち』と平兵衛惜別の和歌が残された。罪状は『一揆発頭人』であった。 田島治兵衛 関源之進による治兵衛への尋問において、治兵衛は『京都奉行所からの通達は、新開田畑を見分して廻るとのことであった。が、現実は5尺8寸の間棹で本田まで検地し、多くの面積を検出した。このままでは百姓は生計が立たず、いつ一揆が起こるかもわからない状態であった。そこで肥物値段引き下げ嘆願にかこつけて、見分中止の嘆願を公役市野殿へ申し入れる手筈であった。が、野洲川原に待機させていた百姓達は一斉に三上の本陣に打ち寄せてしまった。この野洲川原へ結集する廻状は自分一人の考えで出したものであるから、その責任は自分一人にあって他にはない。自分一人を江戸へ送り処刑せよ。』、また『十万日日延べ』の証文の有効性について尋ねられると『一旦、署名捺印された証文は公文書である。それを今さらとかく言うのは幕府自ら天下の法を踏みにじることである。』と答えた。幕府が証文の有効性に拘っていたことがわかる。
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