見分の実態とは? わかりやすく解説

見分の実態

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)

近江天保一揆」の記事における「見分の実態」の解説

市野一行称する所の見分は、野洲郡野村から小田村江頭仁保川筋を遡って実施されたが、仁保川筋の各は、既に大久保今助による検地が行われていたこと、及び草津川野洲川より小さい川である仁保川後回しになると思っていたため、大い動揺したことが伝えられている。しかも、用いられた棹は5尺8寸を一間とするもので、この棹で測ると、一反の田から22坪の余剰地が算出されることになる。 最初野村では触書細則通り厳格な態度であったが、小田村ではあまりに厳し見分称する検地が行われた。市野が庄屋三崎佐太郎自宅宿泊し入浴した際に「糠袋はないのか?」と言った三崎佐太郎十分に心配りをしたつもりだったが、「しまった。お江戸のお偉いお役人さまは入浴の際、糠袋使われるのか。さて、何としたよかろう」と思案するのに老母が「お役人さまのお好みになる糠袋なら、これがよかろうおおかたお望みになろうかと思って用意していた」と話し糠袋二朱金忍ばせて市野に渡そうとしたところ、佐太郎は「母者、これはいけない。今度お役人御公儀直々につかわしになった方。こんなものを持って行けば賄賂を送る不届き者叱られどのような罰を受けるか分からぬと言って反対したが、老母は「いや、お叱りあったら私が間違えて渡ししたと言えばよい。お前さま知らぬふりをして、娘にでも持たせてやりなさい」と答えた佐太郎思い切って老母言う通りにすると、市野の態度一変しそれ以降村方有利な見分行った小田村での出来事はすぐに各伝えられ江頭では庄屋井狩三郎兵衛が千余両を贈賄し一切検地行われなかった。 市野一行食事際し近江八幡料理屋より仕出したが、市野が支払った料金一汁一菜分であり、差額負担させた。 蒲生郡弓削村(現蒲生郡竜王町)の庄屋松瀬兵衛村中に諮り440余両を贈賄し新開場の査定有利に値切ることができた。各は、検地により算出され新開場の開発負担せねばならず、加えて下働き役人にも5両から10両の付け届け求められた。 蒲生郡金屋村(現東近江市)には庄屋金八の『留書』が残されており、それによれば鮒鮨かしわん大、猪口以下其外御酒、御肴等申し付けおく』と豪勢な昼食用意せねばならず、休憩所盛り土三方葭簀囲い出迎え袴着用とされた。金八は1もする菓子箱に小判3両を挨拶に際して持参したことが伝わっている。 江頭見分の後、仁保村(現近江八幡市)から仁保川渡り蒲生郡田中江村(現同市)から伊勢国境に近い原村(現蒲生郡日野町)・西赤寺村(現同町)を回り佐久良川左岸下り野洲郡野田村(現野洲市)・蒲生郡鏡村(現蒲生郡竜王町)の見分終え6月25日8月1日在国大名である仁正寺藩藩主市橋長富 1万7,000石)領野洲郡大篠原(現野洲市)に入った2月3月)、市野一行水口藩日野(現蒲生郡日野町)において豪商矢野右衛門対し新田開発資金1万両の無利息貸し出し要求し藤嶋兵衛にも同様の申し入れ行い二重の上納求めたが、両商人水口藩働きかけどうにか辞退することができた。 3月4月)、家斉時代老中であった井上河内守館林藩6万石)の領地であった蒲生郡桜川寺村(現東近江市)では厳し検地行い、1町6反歩新開地検出したが、隣村である彦根藩綺田では藩より『いかなる空地と言えども家康公より拝領した土地である。村役人が市野等へ空地隠田などと申し立て明らかにしたら承知しない』と厳しく通達され、市野等は彦根藩の対応に屈し御領分一統、御差除に相成り』と彦根領は見分対象から外された。ただし、彦根藩も『彦根様より御料理参る』との記録があり、別途市野一行気遣い行っていた。 野田村では、先の大久保今助による検地従来石高1,029.12石に280石が上乗せされていたが、今回見分によって更に5町5反歩55石)が積み増しされた。庄屋木村定八等より『(大久保今助による)先の検地より困窮甚だしい』旨訴えたが、市野等は格別憐憫をもって5町5反歩としたので不服なら実地測量を行うと村役人叱りとばした6月8月)、大篠原での検地結果から、庄屋甚兵衛等より『高請地減免嘆願書』が見分役人提出されており、それによると『開田一町歩は年貢負担する未開一町歩は今後開発する。しかし、添地本田畑に続く空地新開田畑とする)を出せと言われるが、全て本田であってその様余裕はないので容赦願いたい。』とし、5尺8寸棹を用いた本田検地による余剰地を新開田として供出するよう強要されたことがわかる。 8月9月)になり蒲生郡北野庄村(現近江八幡市)・浅小井(現同市)・神崎郡伊庭村(現東近江市)の湖水縁から信楽代官所支配野洲郡須原新田村(現野洲市)に入った後、野洲村(現野洲市周辺対象地とした。10月入り6日11月8日富波新町(現同市)、同7日(同9日小堤(現同市)の見分行い、同9日(同11日小篠原(現同市)、同11日(同13日)に野洲郡三上村に入る。 小篠原仙台藩伊達家領と旗本斎藤家領に分かれる。市野等は他の々で行った全体面積石高から宛推量開発能面積を割り出すやり方新開田畑算出し、両庄屋承諾強要したが、仙台藩庄屋沢口丈助)より拒否され一筆ごとの見分求められ結果斉藤領(庄屋苗村右衛門)のみ検地行い仙台領には『甲賀郡終了後再度見分する』として手をつけなかった。この様大藩尾張藩彦根藩仙台藩)への諂いに対して『(市野)茂三郎殿の嫌いは、尾張大根彦根かぶらに陸奥なり』と言う落首流行った

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