見分の実態
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市野一行が称する所の見分は、野洲郡野村から小田村・江頭村へ仁保川筋を遡って実施されたが、仁保川筋の各村は、既に大久保今助による検地が行われていたこと、及び草津川・野洲川より小さい川である仁保川は後回しになると思っていたため、大いに動揺したことが伝えられている。しかも、用いられた棹は5尺8寸を一間とするもので、この棹で測ると、一反の田から22坪の余剰地が算出されることになる。 最初の野村では触書細則通り厳格な態度であったが、小田村ではあまりに厳しい見分と称する検地が行われた。市野が庄屋三崎佐太郎の自宅に宿泊し、入浴した際に「糠袋はないのか?」と言った。三崎佐太郎は十分に心配りをしたつもりだったが、「しまった。お江戸のお偉いお役人さまは入浴の際、糠袋を使われるのか。さて、何としたらよかろう」と思案するのに老母が「お役人さまのお好みになる糠袋なら、これがよかろう。おおかた、お望みになろうかと思って用意していた」と話し、糠袋に二朱金を忍ばせて市野に渡そうとしたところ、佐太郎は「母者、これはいけない。今度のお役人は御公儀が直々におつかわしになった方。こんなものを持って行けば賄賂を送る不届き者と叱られ、どのような罰を受けるか分からぬ」と言って反対したが、老母は「いや、お叱りがあったら私が間違えてお渡ししたと言えばよい。お前さまは知らぬふりをして、娘にでも持たせてやりなさい」と答えた。佐太郎が思い切って老母の言う通りにすると、市野の態度は一変しそれ以降村方に有利な見分を行った。 小田村での出来事はすぐに各村に伝えられ、江頭村では庄屋井狩三郎兵衛が千余両を贈賄し一切検地は行われなかった。 市野一行の食事に際し近江八幡の料理屋より仕出したが、市野が村に支払った料金は一汁一菜分であり、差額は村に負担させた。 蒲生郡弓削村(現蒲生郡竜王町)の庄屋松瀬伊兵衛は村中に諮り440余両を贈賄し、新開場の査定を有利に値切ることができた。各村は、検地により算出された新開場の開発を負担せねばならず、加えて下働き役人にも5両から10両の付け届けを求められた。 蒲生郡金屋村(現東近江市)には庄屋金八の『留書』が残されており、それによれば『鮒鮨、かしわん、鯛大、猪口以下其外御酒、御肴等申し付けおく』と豪勢な昼食を用意せねばならず、休憩所は盛り土に三方葭簀で囲い、出迎えは袴着用とされた。金八は1朱もする菓子箱に小判3両を挨拶に際して持参したことが伝わっている。 江頭村見分の後、仁保村(現近江八幡市)から仁保川を渡り、蒲生郡田中江村(現同市)から伊勢国境に近い原村(現蒲生郡日野町)・西赤寺村(現同町)を回り、佐久良川筋左岸を下り野洲郡野田村(現野洲市)・蒲生郡鏡村(現蒲生郡竜王町)の見分を終え、6月25日(8月1日)在国大名である仁正寺藩(藩主市橋長富 1万7,000石)領野洲郡大篠原村(現野洲市)に入った。 2月(3月)、市野一行は水口藩領日野(現蒲生郡日野町)において豪商矢野新右衛門に対し新田開発資金1万両の無利息貸し出しを要求し、藤嶋惣兵衛にも同様の申し入れを行い、二重の上納を求めたが、両商人は水口藩に働きかけどうにか辞退することができた。 3月(4月)、家斉時代の老中であった井上河内守(館林藩6万石)の領地であった蒲生郡桜川寺村(現東近江市)では厳しい検地を行い、1町6反歩の新開地を検出したが、隣村である彦根藩領綺田村では藩より『いかなる空地と言えども家康公より拝領した土地である。村役人が市野等へ空地・隠田などと申し立て、明らかにしたら承知しない』と厳しく通達され、市野等は彦根藩の対応に屈し『御領分一統、御差除に相成り』と彦根領は見分対象から外された。ただし、彦根藩も『彦根様より御料理参る』との記録があり、別途市野一行に気遣いを行っていた。 野田村では、先の大久保今助による検地で従来の石高1,029.12石に280石が上乗せされていたが、今回の見分によって更に5町5反歩(55石)が積み増しされた。庄屋木村定八等より『(大久保今助による)先の検地より村の困窮甚だしい』旨訴えたが、市野等は格別の憐憫をもって5町5反歩としたので不服なら実地に測量を行うと村役人を叱りとばした。 6月(8月)、大篠原村での検地結果から、庄屋甚兵衛等より『高請地減免の嘆願書』が見分役人に提出されており、それによると『開田畑一町歩は年貢を負担する。未開場一町歩は今後開発する。しかし、添地(本田畑に続く空地を新開田畑とする)を出せと言われるが、全て本田であって、その様な余裕はないので容赦願いたい。』とし、5尺8寸棹を用いた本田検地による余剰地を新開田として供出するよう強要されたことがわかる。 8月(9月)になり蒲生郡北野庄村(現近江八幡市)・浅小井村(現同市)・神崎郡伊庭村(現東近江市)の湖水縁から信楽代官所支配の野洲郡須原新田村(現野洲市)に入った後、野洲村(現野洲市)周辺を対象地とした。10月に入り6日(11月8日)富波新町(現同市)、同7日(同9日)小堤村(現同市)の見分を行い、同9日(同11日)小篠原村(現同市)、同11日(同13日)に野洲郡三上村に入る。 小篠原村は仙台藩伊達家領と旗本斎藤家領に分かれる。市野等は他の村々で行った『村全体の面積・石高から宛推量で開発可能面積を割り出す』やり方で新開田畑を算出し、両庄屋に承諾を強要したが、仙台藩庄屋(沢口丈助)より拒否され一筆ごとの見分を求められた結果、斉藤領(庄屋苗村安右衛門)のみ検地を行い、仙台領には『甲賀郡が終了後再度見分する』として手をつけなかった。この様な大藩(尾張藩・彦根藩・仙台藩)への諂いに対して『(市野)茂三郎殿の嫌いは、尾張大根と彦根かぶらに陸奥の魚なり』と言う落首が流行った。
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