諸藩士の処罰
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諸藩士の一揆勢への対応は、積極的な取締りを行わず極めて好意的で寛容であった ことに対して、幕府派遣役人は疑惑を大いに感じた。実際、三上藩の平野や大谷が他藩領とは言え野洲川筋庄屋の顔を知らない訳はないはずであり、水口藩士細野亘は一揆指導者の一人で江戸送りとなった岩根村大庄屋藤谷弥八とは親戚関係にあった。平野・大谷と一揆勢との遣り取りを見る限り、一揆勢の目的を良く理解し張本隠し(首謀者を隠す行為)にも関与している節がる。膳所藩については、過去の大久保今助の検地から幕府のやり方に藩自体が大いに不満を感じており、湖水縁・川筋の新開場が農民・領主にとっていかに不条理なものであるかを理解していた。天保14年に大阪の医師により書かれた『浮世の有様』では、『此度役人衆(市野等)の働き振りに、間数を多く打ち出し、賄賂に貪り、6尺に余程足らざる棹を用いて多く打ち出せしと言う、是故に諸侯も、百姓も大いに憤り、此度一揆せしを諸侯の向も密に悦べる程のことなれば』と書かれている。 三上藩士 天保13年12月22日(1843年1月22日)夕、三上藩郡奉行平野八右衛門に対し召し状が届き、翌日大津代官所において幕府より派遣された関・戸田の尋問を受けることになった。26日には『十万日日延べ』請文を扱った地方役人大谷治之助・一揆当日警備に当たった神山鞆二郎・川上某も出頭を求められ、見分役人であった大津・信楽代官所手代4名も同席し取調べを受けた。事情聴取の結果、最後には見分役人として信楽代官所手代柴山と京都町奉行所柴田以外は全て避難したこと、勘定方市野は逸早く三上山の洞窟に身を隠し京まで逃げた役人もいたことに、その臆病さにあきれ返った。ただ大谷に対しては『十万日の日延べ請文を百姓の要求通りに書き改め手渡し、その間百姓と話をしたにも係わらず名前を知らないと言うことに疑念がある。』、『一時的な方策と言いながら請文を渡し、更に持ち帰えらさせた点、平野共々手落ちである。』とされ、天保14年11月29日(1844年1月18日)京都東町奉行伊那より平野と大田は『第一手弱の取計らい、右始末不埒に付き、押込め仰せ付ける』判決が出され謹慎刑を言い渡され、神山・川上には『急度御叱り』と訓戒処分を下された。 水口藩士 三上藩士取調べ後天保14年1月23日(1843年2月21日)大庄屋山村十郎右衛門を以下捕縛された者以外の庄屋を次々に大津代官所に呼び出した。幕府から派遣された戸田は山村に対して『多くの藩士や大庄屋達まで一揆の鎮圧に当たりながら、領分の者まで大勢騒動を起こしているのに一人として召し捕らえなったとは何たる仕打ちか。』との叱責を受けた。2月7日(3月7日)には鎮圧に当たった物頭細野亘・郡奉行岡田勘右衛門以下16名の藩士が大津に呼び出された。一揆当日、『一揆勢の蜂起を止めなかったばかりか却って炊き出しなどを行い、後援して三上へ決行に行かしめた』として細野以下16名は100日の『閉門』、あるいは『押込み』を後日言い渡された。 膳所藩士 膳所藩は一揆当日藩士中村式右衛門を隊長に石部宿へ170名ほか合計で260余名の藩士を繰り出し十分な鎮圧体制を取っていたにも係わらず、『一揆勢の進行を抑止せず、炊き出しを行い後援し、しかも16日夜には引き上げる一揆勢一人ひとりへ十万日日延べ請文の写しを手渡した。』ことについて中村式右衛門は厳しい追及を受け、江戸へ送られた上江戸十里四方・近江国などでの居住を禁止される『追放』刑に処された。その他23名の藩士に対して『押込み』を言い渡された。 見分役人 見分責任者であった勘定方市野茂三郎、普請役藤井鉄五郎・大坪本左衛門は、天保13年11月12日(1842年12月13日)に帰府命令を受け11月25日(12月26日)に大津を出立し水口宿に一泊し江戸に向かった。僅かに水口宿大庄屋『山村十郎右衛門日記』の天保14年3月21日(1843年4月20日)の項に『今日植野瀬兵衛様が来られ、噂によれば当月11日江戸表にて川筋御裁許これあり、即ち御役御免・逼塞 市野茂三郎様、追込 藤井鉄五郎様・大坪本左衛門様、京都奉行所の柴田様上田様も押込み』と処罰の話が記され、見分派遣役人の処置を知る唯一の資料となっている。
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