一件上申書とは? わかりやすく解説

一件上申書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)

近江天保一揆」の記事における「一件上申書」の解説

一揆当日の様子については、平野右衛門一揆翌日記述し藩主提出した『一件上申書』が詳しく、以下同書引用する。なお、『一件上申書』は10月23日11月25日藩主遠藤胤統より幕府提出され報告書元となった資料である。 11日夕方勘定方野茂三郎等の一行三上村到着し翌日三上村新田見分のため三上藩陣屋からも1名立会いをさせていたところ、15日深夜になり三上藩甲賀郡朝国(現甲南市)の庄屋がやって来て『どのの者かわからないが、川上から大勢やって来て鐘・太鼓の音までする。』と報告してきた。そこで三上村庄屋土川)平兵衛より一行普請役伝えたところ、市野に直接報告しと言われ直接事情説明出向いたが、市野からは『打ち捨て置け。』と言われ、何もせず夜明けまで時を過ごした。 翌16日早朝三上藩甲賀郡植村(現甲賀市水口町)の庄屋から『横田川周辺群集溢れ水口藩取り締まりのため出動したが、対処できない考えたのか引き取ったと言う噂が有る。』と連絡して来たことから、この旨市野に報告したが、『見分についての嘆願であろう三上村騒動起こさないように取り締まれ。』と命じられた。更に、三上村近づく群衆の声が激しくなる頃、市野の本陣より使え来て三上藩士は警備につけ。』と言われ陣屋配下任せ平野本人本陣詰めた普請役藤井鉄五郎が『本陣乱入させぬよう門前制止せよ。嘆願と言うことであれば取り次がせよ。』と言うことなので門前三上藩士が固めたその内数万人の足音本陣周辺響き渡り、各寺の鐘が乱打された。三上村家々には食事乞う人々溢れ三上村の者から『夜明け方から今、昼前頃までにどの家も米を炊き出し黒米まで炊き尽くし年貢米まで底を着いた公役人(市野一行)さえ三上にいなかったらこの様なことにはならなかった。もう1日続いた三上村潰れてしまうので、遠藤藩の名において公役人三上村退去するよう取り計らって欲しい。』との申し出があった。また、下役人から群集に『訴願の件は叶える手段講じるので、門前にいる三上藩士に内容申し出よ。』と伝えたところ、群集から『発頭人と言うような者はいない。老人がいるが、この者を探し出して尋ねよ。』『とにかく三日三晩何も食べておらず空腹のため説明できない。』など取りとめも無いことばかり言い立てていた。 平野は市野に対してこの様一揆勢が四方から結集したからには早急に解決できない武器取り篭城覚悟で向かわねば鎮圧できない。(分散しているのは得策ではないので)三上陣屋移動して欲しい。陣屋周りは十分固める。』と申し出たが、市野からは『出来るだけ陣屋には移動したくない。もう一度お前から一揆勢との解決取り付けよ。』と言われ三上藩士が手分けして群集中に入り訴願の件は承諾取り付ける。』と触れ回ったところ、群集からは『有り難いこと』と言う者もあれば『市野さえ突き殺せば本望』と叫ぶ者もあったが、数名年輩者が『この様大勢集まったのは人間業ではない。その理由は、見分さえ無ければ細々渡世できようが、見分があるばかりに困窮の上落命にまで追いやられる。だから死を覚悟の上妻子捨てて出掛けて来た。今後何回見分来ても、命を懸け一揆勢の反対に出会うであろう。従って、これ以降一切見分行わないと言う請文受け取ったならば、一揆勢は引き上げであろう。』と言った平野は『道理である。何とかして市野から承諾取ってくるから、その間騒動起こさず控えていよ。』と申し渡し群集門前控えた三上村年寄り役内善左衛門も市野に面会し三上村からの立ち退き要請し、市野一行騒動下火になった大津代官所引き取る準備をした。平野は市野に一揆訴願事情説明し、『見分についての百姓への請文は、一揆勢を引き上げさせる方策であり、適宜処置を。』と申し入れ普請役藤井鉄五郎などが『再び野洲川見分の義は為相見合候事(野洲川見分の件は見合す)。』との請文書き一揆勢にその請文門前掲げて見せたところ、口々に印判がない。』と抗議するので、道理であるとして藤井などに捺印求めたが、既に印判大津引き取るために片付けられており探すのに時間要した門前で待つ群衆も、偶々一人小石投げたことが契機となり(痺れ切らして一斉に石・瓦本陣投げ込まれ、また大勢が門内になだれ込む騒動発展した。市野は印判書類懐中にしまい三上山逃げようとしたが、一揆勢に見つかり追われ逃げ惑う市野を三上村百姓甚兵衛と久右衛門庇い三上山中の『姥が懐』又は『百足穴』と俗称される洞窟隠れさせた。本陣には普請役藤井鉄五郎信楽代官所手代柴山二名しか残っておらず、他の者は逃げ去っていた。本陣であった大谷家屋敷壊され見分役人長持破壊された。平野は『こうなったからには少々手荒なこともやむを得ない。』とし、藤井も『公用物まで破壊したのだから已む無し』として、本陣大谷家一揆勢を牽制し『この請文承諾せよ。余計な命と思うなら打ち殺す。』と鉄砲に玉を仕込み威嚇した。 群集より一人の者が平野に対して請文さえ頂ければそれで良い。』と申し出たので捺印した請文渡したところ、『大勢のことなので皆と相談し了解であるならば引き上げるが、異論があれば申し出る。』とのことであった。再び本陣にて待っていると『見分見合わせると言うのでは曖昧であるので、十万日の日延べ期限画して欲しい。』『見分役人衆の署名捺印も願う』との申し入れがあり、門前警護していた地方役の大谷治之助がその通り処置し、『一.今度野洲川廻村新開見分之義ニ付願筋も之有候間十萬日之間日延之義相願候趣承届候事』との請文手渡した。そして周知徹底のため障子に『今日から十万日の日延べ』と大書きして一揆勢に示すと、一揆勢は『有り難いことだ。』と了解の上七つ過ぎ午後5時頃)になり三上藩陣屋一礼した後に引き上げていった。 一揆勢が三上村退去後、三上山から市野を迎え入れ、市野は平野等の適切な処置に対して謝意呈した。市野等も三上村退去し守山宿抜け大津には子の刻深夜12時頃)に着いた。市野等は大津にて一夜休息取った後、翌10月17日11月19日京都町奉行所辿り着きすぐさま江戸使い出し進退伺い行った11月12日12月13日)、漸く江戸より帰府命じられ帰途着いた。なお、大津退去する際、野洲川対岸栗太郡辻村(現栗東市)に待機していた膳所藩警備隊大津代官所手代柴山助力要請した拒絶された。

※この「一件上申書」の解説は、「近江天保一揆」の解説の一部です。
「一件上申書」を含む「近江天保一揆」の記事については、「近江天保一揆」の概要を参照ください。

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