一件上申書
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一揆当日の様子については、平野八右衛門が一揆翌日に記述し藩主に提出した『一件上申書』が詳しく、以下同書 を引用する。なお、『一件上申書』は10月23日(11月25日)藩主遠藤胤統より幕府に提出された報告書の元となった資料である。 11日夕方、勘定方市野茂三郎等の一行が三上村に到着し、翌日三上村新田見分のため三上藩陣屋からも1名立会いをさせていたところ、15日深夜になり三上藩領甲賀郡朝国(現甲南市)の庄屋がやって来て『どの村の者かわからないが、川上から大勢やって来て鐘・太鼓の音までする。』と報告してきた。そこで三上村庄屋(土川)平兵衛より一行の普請役に伝えたところ、市野に直接報告しろと言われ直接事情説明に出向いたが、市野からは『打ち捨て置け。』と言われ、何もせず夜明けまで時を過ごした。 翌16日早朝、三上藩領甲賀郡植村(現甲賀市水口町)の庄屋から『横田川原周辺が群集で溢れ、水口藩が取り締まりのため出動したが、対処できないと考えたのか引き取ったと言う噂が有る。』と連絡して来たことから、この旨市野に報告したが、『見分についての嘆願であろう。三上村が騒動を起こさないように取り締まれ。』と命じられた。更に、三上村に近づく群衆の声が激しくなる頃、市野の本陣より使えが来て『三上藩士は警備につけ。』と言われ、陣屋は配下に任せ平野本人は本陣に詰めた。普請役藤井鉄五郎が『本陣へ乱入させぬよう門前で制止せよ。嘆願と言うことであれば取り次がせよ。』と言うことなので門前を三上藩士が固めた。 その内数万人の足音が本陣周辺に響き渡り、各寺の鐘が乱打された。三上村の家々には食事を乞う人々で溢れ、三上村の者から『夜明け方から今、昼前頃までにどの家も米を炊き出し、黒米まで炊き尽くし、年貢米まで底を着いた。公役人(市野一行)さえ三上にいなかったらこの様なことにはならなかった。もう1日続いたら三上村は潰れてしまうので、遠藤藩の名において公役人が三上村を退去するよう取り計らって欲しい。』との申し出があった。また、下役人から群集に『訴願の件は叶える手段を講じるので、門前にいる三上藩士に内容を申し出よ。』と伝えたところ、群集から『発頭人と言うような者はいない。老人がいるが、この者を探し出して尋ねよ。』『とにかく三日三晩何も食べておらず空腹のため説明できない。』など取りとめも無いことばかり言い立てていた。 平野は市野に対して『この様に一揆勢が四方から結集したからには、早急に解決できない。武器を取り篭城の覚悟で向かわねば鎮圧できない。(分散しているのは得策ではないので)三上陣屋へ移動して欲しい。陣屋周りは十分固める。』と申し出たが、市野からは『出来るだけ陣屋には移動したくない。もう一度お前から一揆勢との解決を取り付けよ。』と言われ、三上藩士が手分けして群集の中に入り『訴願の件は承諾を取り付ける。』と触れ回ったところ、群集からは『有り難いこと』と言う者もあれば『市野さえ突き殺せば本望』と叫ぶ者もあったが、数名の年輩者が『この様に大勢が集まったのは人間業ではない。その理由は、見分さえ無ければ細々渡世もできようが、見分があるばかりに困窮の上落命にまで追いやられる。だから死を覚悟の上妻子を捨てて出掛けて来た。今後何回見分に来ても、命を懸ける一揆勢の反対に出会うであろう。従って、これ以降一切見分は行わないと言う請文を受け取ったならば、一揆勢は引き上げるであろう。』と言った。平野は『道理である。何とかして市野から承諾を取ってくるから、その間騒動を起こさずに控えていよ。』と申し渡し、群集は門前に控えた。 三上村年寄り役内堀善左衛門も市野に面会し三上村からの立ち退きを要請し、市野一行は騒動が下火になったら大津代官所に引き取る準備をした。平野は市野に一揆訴願の事情を説明し、『見分についての百姓への請文は、一揆勢を引き上げさせる方策であり、適宜な処置を。』と申し入れ、普請役藤井鉄五郎などが『再び野洲川筋見分の義は為相見合候事(野洲川見分の件は見合す)。』との請文を書き、一揆勢にその請文を門前で掲げて見せたところ、口々に『印判がない。』と抗議するので、道理であるとして藤井などに捺印を求めたが、既に印判は大津に引き取るために片付けられており探すのに時間を要した。 門前で待つ群衆も、偶々一人が小石を投げたことが契機となり(痺れを切らして)一斉に石・瓦が本陣に投げ込まれ、また大勢が門内になだれ込む騒動に発展した。市野は印判・書類を懐中にしまい三上山に逃げようとしたが、一揆勢に見つかり追われ、逃げ惑う市野を三上村の百姓甚兵衛と久右衛門が庇い、三上山中の『姥が懐』又は『百足穴』と俗称される洞窟に隠れさせた。本陣には普請役藤井鉄五郎と信楽代官所手代柴山の二名しか残っておらず、他の者は逃げ去っていた。本陣であった大谷家屋敷は壊され、見分役人の長持も破壊された。平野は『こうなったからには少々手荒なこともやむを得ない。』とし、藤井も『公用物まで破壊したのだから已む無し』として、本陣大谷家の槍で一揆勢を牽制し『この請文で承諾せよ。余計な命と思うなら打ち殺す。』と鉄砲に玉を仕込み威嚇した。 群集より一人の者が平野に対して『請文さえ頂ければそれで良い。』と申し出たので捺印した請文を渡したところ、『大勢のことなので皆と相談し了解であるならば引き上げるが、異論があれば申し出る。』とのことであった。再び本陣にて待っていると『見分見合わせると言うのでは曖昧であるので、十万日の日延べと期限を画して欲しい。』『見分役人衆の署名捺印も願う』との申し入れがあり、門前を警護していた地方役の大谷治之助がその通りに処置し、『一.今度野洲川廻村々新開場見分之義ニ付願筋も之有候間十萬日之間日延之義相願候趣承届候事』との請文を手渡した。そして周知徹底のため障子に『今日から十万日の日延べ』と大書きして一揆勢に示すと、一揆勢は『有り難いことだ。』と了解の上、七つ過ぎ(午後5時頃)になり三上藩陣屋に一礼した後に引き上げていった。 一揆勢が三上村を退去後、三上山から市野を迎え入れ、市野は平野等の適切な処置に対して謝意を呈した。市野等も三上村を退去し、守山宿を抜け大津には子の刻(深夜12時頃)に着いた。市野等は大津にて一夜休息を取った後、翌10月17日(11月19日)京都町奉行所に辿り着き、すぐさま江戸に使いを出し進退伺いを行った。11月12日(12月13日)、漸く江戸より帰府を命じられ、帰途に着いた。なお、大津へ退去する際、野洲川対岸の栗太郡辻村(現栗東市)に待機していた膳所藩警備隊に大津代官所手代柴山が助力を要請したが拒絶された。
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