一代貴族制の挫折の歴史
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一代貴族による貴族院の司法機能強化の問題については、1876年の上訴管轄権法によって法服貴族(常任上訴貴族 Lords of Appeal in Ordinary)制度が設置されたことで解決した。これにより上級の司法職にあった者や弁護士を一代貴族に任命できるようになった。 だが法服貴族以外の一代貴族の導入は遅々として進まなかった。1869年に初代ラッセル伯ジョン・ラッセルによって提出された一代貴族法案は、10年以上庶民院議員を務めた者、陸海軍軍人、上級裁判官、高級公務員、文化部門で優れた者などから28名を限度として一代貴族を任命できるとした法案だったが、第3読会で否決されている。つづいて1888年に第3代ソールズベリー侯ロバート・ガスコイン=セシルが一代貴族法案を提出した。骨子はラッセル案とほぼ同じで、2年以上上級裁判官であった者、海軍中将・陸軍少将以上の陸海軍軍人、大使、高級公務員および枢密顧問官、5年以上海外植民地の総督であった者、ないしインド副総督であった者などから、50名を限度に一代貴族を任命できるとした法案だったが、第二読会通過後審議未了で終わった。 ついで1908年12月に第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズを委員長とするローズベリー委員会が、貴族院改革案を作成し、その中で一代貴族導入を提案した。全ての貴族が自動的に貴族院議員に列する制度は廃止して、王族議員3名、特定の役職の就任経験を持つ世襲貴族130名、世襲貴族の互選による代表貴族院議員200名、聖職貴族議員10名、法服貴族議員5名、一代貴族議員40名で構成することを内容とした。しかし数か月後にロイド・ジョージの人民予算案が否決され、その後の嵐のような与野党・両院対立の中でこの改革案も立ち消えた。 1909年から1911年の議会法をめぐる貴族院危機で貴族院の世襲的性格が批判されるようになり、一代貴族制を含む貴族院改革案もいくつか提出されているが、どれも流産した。以上に掲げたような一代貴族創設に関するあらゆる提案は、単に提案に留まったり、法律案として上程されたが、否決または審議未了ないし撤回され続け、結局1958年の一代貴族法の成立を見るまでは実現しなかった。 早期から貴族院充実強化の必要性が叫ばれ、一代貴族創設案が多数提出されながら、なぜ1958年まで一つとして成功しなかったかは、必ずしも明確でないが、ひとつには政府が一代貴族任命権を実質的な意味で行使することは政府および庶民院に対する貴族院の従属を招来するという危惧があったと思われる。またバーナード・クリックによれば貴族院議員たちの間には貴族としての体面を保てる財産を持たない者を一代限りとはいえ貴族にすることに強い反発があったという。 この空気に変化が生じてきたのは、何よりも労働党の台頭であった。貴族院廃止を綱領で掲げていた同党が党勢拡大し、政権に近づくにつれて保守党内には現状のままでは貴族院の寿命は幾ばくも無いという危機感が生まれたし、逆に労働党内には「弱い」ことを条件に貴族院を認めようという空気が支配的となっていった。そのため両党間に貴族院改革での歩み寄りがみられるようになり始めたのである。 その最初の結実は1948年春の保守党、労働党、自由党の貴族院構成に関する三党試案だった。「改革は貴族院が庶民院の補助機関であるとの基礎に立って、現行の構成の修正を行い、選挙による新しい型の第二院の設置には反対する。」「一党が永続的に多数を占めないようにする。」「現行の世襲貴族のみによる出席・評決権は認めない。」「第二院の議員は議会貴族(Lords of Parliament)と称し、本人自身の卓越または国家奉仕の理由により、世襲貴族および平民双方から選抜された者が任命され、後者は一代貴族とする。」「議会貴族ではない世襲貴族には庶民院議員に立候補し、また他の市民と同様の方法で各選挙に投票する資格を与える。」といった点に合意があった。ただこの合意は「貴族院の構成と権限は相互的な物なので、両者について意見の一致を見ないときは、全般的な合意に達しえないものとする」とする一項があり、権限の点で三党の合意が得られなかったことから結局この試案自体は御破算となった。 しかしとにもかくにも三党が一代貴族を認めたことは一代貴族法成立への基礎となった。
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