阿部時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 07:18 UTC 版)
松平正雅の転封から間もなく下野国宇都宮藩(10万石)から阿部正邦が10万石で入封する。以後、阿部家は廃藩置県まで10代161年間在封することになった。この間老中を4人、大坂城代を1人輩出する。特に7代藩主・阿部正弘は25歳で老中首座に就任し、日米和親条約を締結したなど著名である。しかし阿部家は代々幕閣の中枢を目指したため、歴代藩主のほとんどは江戸定府で、領内に在住することは稀であった。また、このために阿部家は他の大名に比べ多くの経費を必要とし、また先の検地により厳しい査定を受けての10万石であったため歴代を通じて財政状況は極めて悪く、たびたび一揆を招くことにもなった。中でも領内全域を巻き込んだ天明の一揆は『安部野童子問』などの書物に描かれて全国的に名を知られた(水野時代に一揆の発生した記録は一度もない)。また、重税や飢饉により没落する農民も多く、田畑所有の寡占化が進み、幕末までに多くの「豪農」が出現した。 藩政において、阿部家は基本的に領国の経営に関心が薄いこともあり、財政の緊縮に重きが置かれ、水野家のような大規模な開発は行われなくなる(幕末には福山沖で広大な新田の開発が始まるが、完成前に明治を迎えた)。嘉永5年(1852年)には阿部正弘が江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増され、石高は計11万石となった。このとき加えられた領地は、水野家廃絶時に幕府領とされた安那郡、神石郡、後月郡のそれぞれ一部である。阿部家は教育の面においては、天明6年(1786年)に4代・阿部正倫が藩校「弘道館」を開き、阿部正弘は嘉永6年(1853年)に福山と江戸に新たな藩校「誠之館」を開くなど、目覚しいものがあった。このため幕末までに福山藩からは、菅茶山や頼山陽を始め多くの人物を輩出することになった。
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