阿部正弘の側用人
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天保14年(1843年)、故郷に戻っていた藤陰は隣国の福山藩の儒官となる。ところが、福山入りする直前の10月に突如、藩主・阿部正弘が老中に就任することになり、翌1844年に江戸へと呼び出され、君側御用係に任命された。以後、学問の教授や、正弘の使者・情報収集など側近として活躍した。また、この頃水戸藩主・徳川斉昭が幕府の不興を買って隠居させられていたが、正弘に斉昭の赦免を働きかけて実現させ、やがて斉昭は幕府の海防参与に起用されることになった。 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航すると、老中首座として幕政の最高責任者となっていた正弘の命を受けて浦賀や下田にて状況を探索。藤陰は頼山陽譲りの尊王論を唱えて攘夷断行を進言するが、正弘は日米和親条約の締結を決断。徳川斉昭に条約締結の許可を求める使者をつとめた。 正弘が福山藩内に新しい藩校「誠之館」を設立した際には、実際の企画などを行う一方、藤田東湖、佐久間象山、江川英龍など、攘夷派から開国派まで幅広い人物と交際をもって、海防や国内の諸問題について語り、朝廷と幕府との協力体制確立について論じ合った。 安政3年(1858年)から翌年にかけて、蝦夷地・千島・樺太の調査を2回にわたって行い、途中で重病になりながらも『観国録・蝦夷紀行』という報告書に纏めた。しかし、安政4年6月17日、主君・正弘が突然の病死、更に幕府による安政の大獄において捕縛された頼山陽の子・頼三樹三郎を福山藩で預かることになり、助命嘆願も通じずに処刑される。
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