阿部正弘の側用人とは? わかりやすく解説

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阿部正弘の側用人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 05:47 UTC 版)

関藤藤陰」の記事における「阿部正弘の側用人」の解説

天保14年1843年)、故郷戻っていた陰は隣国福山藩儒官となる。ところが、福山入りする直前10月突如藩主阿部正弘老中就任することになり、翌1844年江戸へ呼び出され君側御用係に任命された。以後学問教授や、正弘使者情報収集など側近として活躍したまた、この頃水戸藩主徳川斉昭幕府不興買って隠居させられていたが、正弘に斉昭の赦免働きかけ実現させ、やがて斉昭は幕府海防参与起用されることになった嘉永6年1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリー浦賀来航すると、老中首座として幕政最高責任者となっていた正弘の命を受けて浦賀下田にて状況探索陰は頼山陽譲り尊王論唱えて攘夷断行進言するが、正弘日米和親条約締結決断徳川斉昭条約締結許可求め使者つとめた正弘福山藩内に新し藩校誠之館」を設立した際には、実際企画などを行う一方藤田東湖佐久間象山江川英龍など、攘夷派から開国派まで幅広い人物交際をもって海防国内諸問題について語り朝廷幕府との協力体制確立について論じ合った安政3年1858年)から翌年にかけて、蝦夷地千島樺太調査を2回にわたって行い途中で重病になりながらも『観国録・蝦夷紀行』という報告書纏めた。しかし、安政4年6月17日主君正弘が突然の病死、更に幕府による安政の大獄において捕縛され頼山陽の子頼三樹三郎福山藩で預かることになり、助命嘆願通じずに処刑される

※この「阿部正弘の側用人」の解説は、「関藤藤陰」の解説の一部です。
「阿部正弘の側用人」を含む「関藤藤陰」の記事については、「関藤藤陰」の概要を参照ください。

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