高掛金の賦課と一揆の発生
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「寛政一揆」の記事における「高掛金の賦課と一揆の発生」の解説
寛政2年(1790年)、刈谷藩は、三浦氏から継承して従前より実施していた先納金や御用金の制度に加えて、高100石あたり銀23匁を高掛金として領内へ賦課する制度を決めた。当然ながら領民の耐えられる負担ではなかったため、高100石あたり銀10匁への減額が嘆願されたが、藩はこれを拒絶した。この高掛金導入に関する一件が契機となって、ついに領民の不満が爆発、事態は寛政一揆へと発展した。同年12月、領内諸村の百姓たちは浄土真宗の報恩講参りと称して、各村の寺へ2ヶ村・3ヶ村ずつ集って寄合を重ね、領内42ヶ村の領民は申し合わせのうえ、刈谷城にほど近い重原村に所在する弘法山・恩田山に集結、竹筒を法螺貝のように吹きたて、昼夜を分かたず鬨の声を上げて藩側を恫喝する構えを見せた。藩側はこれに狼狽して、大庄屋の高取村善兵衛を説得のために派遣したが、一揆側の目潰しに遭って退散、前家老の多米左善を代わりに派遣して事態の鎮圧に努めさせ、ようやく群衆を退散させることができた。この時、刈谷城大手門に次のような狂歌の落書が残されていた。 「 御紋より内えよ車が廻り兼 百姓にむりな金かりや様 」 翌寛政3年(1791年)、村役人をはじめ事件の関係者は厳しい取り調べを受け、責任者の処分が行われた。一揆方の説得に失敗した高取村善兵衛は大庄屋の役を取り上げられ、野田村の昌福寺にて百姓たちを前に演説をこなった中町善造なる人物は首謀者とみなされ、永牢となった。また、刈谷藩当主の土井利制は幕府によって領政不行届を咎められ、同年6月に一ヶ月の謹慎が命じられた。しかし、譜代の大名領に起こったこの一揆を重視した幕府の刈谷藩に対する懲戒は、これにとどまらなかった。
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