三衛の末裔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:33 UTC 版)
三衛の中で唯一残った朶顔衛は西隣の大勢力ハラチン部の影響下にあったが、17世紀初頭にリンダン・ハーンがモンゴリアの統一を目指して西遷を始めると、これによってハラチン部は解体された。チャハルの活動に危機感を抱いた朶顔衛は後金国に救援を求め、清の天聡六年(1632年)にホンタイジのチャハル遠征によってハラチンの残部、朶顔衛は後金国の統治下に入った。そこでハラチン部は再編成され、元朶顔衛の首長を統治者とするハラチン旗が成立した。後金国改めダイチン・グルン(清朝)の統治下でジョソト盟ハラチン右翼旗・左翼旗・中旗は存続し、満州国時代を経て現在のカラチン旗に至っている。
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