三衛の創建とは? わかりやすく解説

三衛の創建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:33 UTC 版)

ウリヤンハイ三衛」の記事における「三衛の創建」の解説

洪武元年1368年)、大将軍徐達率い明軍大都攻略し、元のハーンであるトゴン・テムル順帝/ウハート・ハーン)は北走し応昌逃れた一般的に、これ以後大元ウルス北元と呼ぶ。これに続けて明軍洪武二年(1369年)に応昌を、洪武三年1370年)に上都攻略し北元追い詰めトゴン・テムルに代わってハーンとなったアユルシリダラ(ビリクト・ハーン)は北モンゴルまで逃れた洪武五年(1372年)に明軍が北モンゴル大敗喫すると、明朝モンゴル出兵一時的に低調となったものの、洪武二十年1387年)に東モンゴル大勢力であるナガチュ明朝投降し、翌二十一年1388年)にハーントグス・テムルウスハル・ハーン)が殺されるモンゴル側の劣勢決定的となり、明朝投降するモンゴル人相次いだチンギス・カン末弟テムゲ・オッチギンの子孫である遼王アジャシュリまた、トグス・テムル死によって明朝への投降余儀なくされ、これを受けた洪武帝洪武二十二年(1389年アジャシュリの部衆を朶顔衛泰寧衛福余衛の三衛に編成した。これがウリヤンハイ三衛起源となったが、この時のアジャシュリらの投降自衛のための一時的なもの過ぎず洪武二十四年(1393年)には早くもアジャシュリ明朝辺境攻撃し傅友徳らによって撃退されている。洪武二十五年(1394年)には北モンゴルのアンダ・ナガチュを攻撃した明軍アジャシュリに対して諭しているが、洪武年間に三衛が再び明朝に降ることはなかった。靖難の役制した燕王皇帝即位すると、永楽元年1403年)に再び三衛を設立し新たに首領定めた。『明史』などでは「靖難の役に際して三衛が燕王側について寧王朱権捕らえたので、戦後燕王はこれを労って大寧周辺の地を与えた」とする記述があるものの、これは永楽帝大寧都司移動1403年)と三衛の南下15世紀中葉)とを混同した後世の創作であると考えられている。ただし、寧王朱権南昌移封ウリヤンハイ三衛大寧周辺与えたのは、永楽帝燕王時代一部懐柔成功していたモンゴル勢力明に対す脅威とはみなしていなかったからであり、北京遷都当初モンゴル備えた軍事的目的では無く南北統一促進図った政治的経済的目的よるものであり、その後の情勢変化によってモンゴル親征へと方針転換されたとする見解もある。

※この「三衛の創建」の解説は、「ウリヤンハイ三衛」の解説の一部です。
「三衛の創建」を含む「ウリヤンハイ三衛」の記事については、「ウリヤンハイ三衛」の概要を参照ください。

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