三衛の創建
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洪武元年(1368年)、大将軍徐達率いる明軍は大都を攻略し、元のハーンであるトゴン・テムル(順帝/ウハート・ハーン)は北走し応昌に逃れた。一般的に、これ以後の大元ウルスを北元と呼ぶ。これに続けて明軍は洪武二年(1369年)に応昌を、洪武三年(1370年)に上都を攻略して北元を追い詰め、トゴン・テムルに代わってハーンとなったアユルシリダラ(ビリクト・ハーン)は北モンゴルまで逃れた。洪武五年(1372年)に明軍が北モンゴルで大敗を喫すると、明朝のモンゴル出兵は一時的に低調となったものの、洪武二十年(1387年)に東モンゴルの大勢力であるナガチュが明朝に投降し、翌二十一年(1388年)にハーンのトグス・テムル(ウスハル・ハーン)が殺されるとモンゴル側の劣勢は決定的となり、明朝に投降するモンゴル人が相次いだ。 チンギス・カンの末弟テムゲ・オッチギンの子孫である遼王アジャシュリもまた、トグス・テムルの死によって明朝への投降を余儀なくされ、これを受けた洪武帝は洪武二十二年(1389年)アジャシュリの部衆を朶顔衛・泰寧衛・福余衛の三衛に編成した。これがウリヤンハイ三衛の起源となったが、この時のアジャシュリらの投降は自衛のための一時的なものに過ぎず、洪武二十四年(1393年)には早くもアジャシュリは明朝の辺境を攻撃し、傅友徳らによって撃退されている。洪武二十五年(1394年)には北モンゴルのアンダ・ナガチュを攻撃した明軍がアジャシュリに対して招諭しているが、洪武年間に三衛が再び明朝に降ることはなかった。靖難の役を制した燕王が皇帝に即位すると、永楽元年(1403年)に再び三衛を設立し、新たに首領を定めた。『明史』などでは「靖難の役に際して三衛が燕王側について寧王朱権を捕らえたので、戦後に燕王はこれを労って大寧周辺の地を与えた」とする記述があるものの、これは永楽帝の大寧都司移動(1403年)と三衛の南下(15世紀中葉)とを混同した後世の創作であると考えられている。ただし、寧王朱権の南昌移封とウリヤンハイ三衛に大寧周辺を与えたのは、永楽帝が燕王時代に一部の懐柔に成功していたモンゴル勢力を明に対する脅威とはみなしていなかったからであり、北京遷都も当初はモンゴルに備えた軍事的目的では無く南北統一の促進を図った政治的・経済的目的によるものであり、その後の情勢の変化によってモンゴル親征へと方針が転換されたとする見解もある。
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