燕王時代
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至正20年8月14日(1360年5月2日)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた。記憶力が極めて高く、幼い頃は早朝から学者を招き、一度読んだ本の内容は忘れなかったとされる。洪武3年(1370年)に北平都指揮使(中国語版)に封じられるが、実際に北平に赴いたのは洪武13年(1380年)、21歳の時である。明は元をモンゴル高原に駆逐したが、依然として勢力を有していた(北元)。北方の要衝である燕は極めて重要な防衛拠点であり、ここに封じられた朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝から認められていた。 洪武23年(1390年)、洪武25年(1392年)、洪武29年(1396年)と北伐を行い、ことごとく勝利した。洪武帝は朱棣の働きについて「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。 洪武25年(1392年)に皇太子であった長兄の朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対されたために取り止め、朱棣を後継にできないことを嘆き悲しんだと『明史』にある。 洪武31年(1398年)、洪武帝の崩御にともない甥にあたる建文帝(朱標の子)が即位した。その側近である斉泰・黄子澄らは皇帝権力を確立するため、洪武帝が各地に封じた皇族の取り潰しを画策した。この時、当時燕王であった朱棣は2月に自ら都の南京に赴いた。戸部侍郎であった卓敬はこの機を捉えて朱棣を南昌へと配流すべきと上表したが、建文帝は「燕王は血肉を分けた至親である、謀反の心配などはない」と答えたと言う。 しかし3月、北平の官吏の一部が燕王と結託したと言う報告が入り、斉泰らは内通者を逮捕。都督の宋忠(中国語版)に燕王の指揮下にある軍隊を率いさせて出動させると言う方法で北平の兵力を削減した。この頃から朱棣は仮病を使ったり狂人の振りをしていたとする。しかし、燕王の仮病を密告するものがいたため斉泰らは朱棣を逮捕するように指示した。 これに反発した朱棣は朝廷関係者と内通者を逆に捕縛し殺害。兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は自らの軍を「靖難軍」(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と呼ぶ。
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