燕王時代とは? わかりやすく解説

燕王時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:19 UTC 版)

永楽帝」の記事における「燕王時代」の解説

至正20年8月14日1360年5月2日)、紅巾の乱頭角現し群雄一人朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた記憶力極めて高く幼い頃早朝から学者招き一度読んだ本の内容忘れなかったとされる洪武3年1370年)に北平指揮使(中国語版)に封じられるが、実際に北平赴いたのは洪武13年1380年)、21歳の時である。明は元をモンゴル高原駆逐したが、依然として勢力有していた(北元)。北方要衝である燕は極めて重要な防衛拠点であり、ここに封じられ朱棣はその戦場での能力勇敢さ洪武帝から認められていた。 洪武23年1390年)、洪武25年1392年)、洪武29年1396年)と北伐行いことごとく勝利した洪武帝朱棣働きについて「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。 洪武25年1392年)に皇太子であった長兄朱標死去すると、洪武帝朱棣皇位を継がせようとした群臣反対されたために取り止め朱棣後継できないこと嘆き悲しんだと『明史』にある。 洪武31年1398年)、洪武帝崩御にともない甥にあたる建文帝朱標の子)が即位した。その側近である斉泰黄子澄らは皇帝権力確立するため、洪武帝各地封じた皇族取り潰し画策した。この時、当時燕王であった朱棣2月に自ら都の南京赴いた戸部侍郎であった卓敬はこの機を捉えて朱棣南昌へと配流すべきと上表したが、建文帝は「燕王血肉分けた至親である、謀反心配などはない」と答えたと言う。 しかし3月北平官吏一部燕王結託しと言う報告入り斉泰らは内通者逮捕都督宋忠中国語版)に燕王指揮下にある軍隊率いさせて出動させると言う方法北平兵力削減したこの頃から朱棣仮病使った狂人振りをしていたとする。しかし、燕王仮病密告するものがいたため斉泰らは朱棣逮捕するように指示した。 これに反発した朱棣朝廷関係者と内通者逆に捕縛し殺害。兵を集め南京建文帝対し反乱起こした朱棣は自らの軍を「靖難軍」(君側の奸討ち国難を靖んずるの意味)と呼びここからこの反乱靖難の変と呼ぶ。

※この「燕王時代」の解説は、「永楽帝」の解説の一部です。
「燕王時代」を含む「永楽帝」の記事については、「永楽帝」の概要を参照ください。

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